家具も建築ももうやることは無い?

【日記】




家具も建築も、もうやることは無い。
そんなことを言い出してみよう。
そんなことを言い出すと、とうとうこの人もアイデアが枯渇したか、と取られそうで怖い。
そう取って欲しくない。
いろいろやってみて、日の目をみたモノや空間が辿った道を知り、そこに賭けた努力や経費を知り、その上で、人は何のために生きているのかを悩み、今日まで来てみると、虚栄と虚無が浮き上がってくる。
家具も建築も、フィクションで創るならデザインというより芸術だ。クライアントは要らないが、椅子の例で言えば、脚、または台になるものを無くせない。そこでもがいて数え切れない学生作品のような提案はあった(自分のことだけを言っているのではない)。それらはすでに市場の商品になりえないで、卒展や展覧会場から消えていった。
まだ何かある、と考えるあたりから、虚栄心が滲み出てくる。それを気づかずに、有名になって、食えるようになると考える。それで歴史に残る?
フィクションで考えなければ、経済行為だ。より儲けるために何かやるということになる。それでアイデアを探せる人はむしろ幸せだ。
建築も同じ。
芦原義信が息子の太郎氏に「お前たちに残された仕事は無い。かわいそうだな」とか言ったそうだが、ここでも、見てみたい「現実の夢」はほとんど実現されてしまった。

「この世に残るものを創れますよ」と言ってみても、それが何の意味をもち、何の役に立つのかを知っているわけではない。また、知っていても知らなくても、そのような意識を共有できるようなクライアントにめぐり合うこと自体が絶望的だ。
それは、神殿の設計を依頼出来るような人物に出会うのと同じだと言ったら、笑われるだろうか。