モリスとその周辺事情が教えるもの

【論】


1860年代が見えてきた


イリアム・モリスと言えば、デザイナーで知らない者はいない。多分、建築家だってそうだろう。それほどデザイン学習上の出発点に持ち出されてきた。だから僕にしてから、「モリス? ああ、判っているよ」 と言うのがこの何十年かの常套句だった。


ところで、2月22日と24日にこのブログでシャヴァンヌの事を書いた。
それ以来、彼が生きた時代に異常に関心が高まってしまった。
その時、1860年と言う年をマークしたが、この年、シャヴァンヌ36才。例えばコローは64才。二人ともパリに住んでいたようだ。互いに知らないはずはなかっただろう。
そんな思いに囚われていた時に、二つのこの時代を知れる展覧会が並行して開催されていることに気がついた。
「ザ・ビューティフル/英国の唯美主義」展(三菱一号館美術館)と、「ラファエル前派展」(森アーツセンターギャラリー)である。


こちらの二つの展覧会は、奇しくも両方とも英国で、しかも1860年代に掛かっていて、「どう違うのか」ということで興味があったが、シャヴァンヌの生きていた1860年との比較は当初考えていなかった。そもそもイギリス絵画というものにそれほど興味がなかったから、というのが実情だ。
しかし、この両方の展覧会を巡って見て、おおいに考えさせられた。そしてシャヴァンヌで感じたある種の衝撃のおかげで、英国の「問題」もより見えてきたと感じている。
僕は美術史の研究家ではないから、ここから19世紀中葉のイギリスの美術、特に「ラファエル前派」と「唯美主義」についての解説を試みようとするものではない。この時代への関心は、もちろんモリスの影響も含め、現代日本の文化の針路を模索、あるいはむしろ予言するのに非常に有効なキーを提供してくれると感じたからだ。だからその限りにおいて、歴史の証言は引用や例証も意味があることになる。
それはその時代がもたらす文化表現について、解釈の仕方という「回答例」が教えてくれるものがあるからだ。


現実問題との絡みで、まず結論めいたことから言うと、僕がここまで言葉にして語っていることには、大きな危機があることが予感、というよりむしろ実感されたことに関係する。あちこちでいろいろのことを言ってきたが、言葉、あるいは活字にしてしか表現できないことがあり、近年、社会の複雑化に伴い特にその感を深めてきた。それに従って必死にやっていたら、いつの間にか「表現(特に視覚)できない男」にされつつあるような実感なのである。
もともと、僕は言葉を知らなかった人間だ。それで奈落に底に落とされたような時代を経て、必死に言葉にしがみついて来たらこの様だ。
僕が抱いた危機感というのは、この日本で美や文化はおろか、デザイン・建築ジャーナリズムとなるともっとも育っていない状況において、デザインや建築について騒いでいるのはほとんどが同業者でしかなく、その同業者は一般に言葉を信用していず、見た目だけで価値を判断している、ということがもたらす問題だ。
建築もデザインも拡散し、どうともいえる時代になっているが、その実、問題にしているのがこのような同業者ばかりなら、どういうことになるだろうか。いい形、目新しいフォルム、いいプレゼンテーション、いいグラフィックなどばかりが評価の対象になり(「いい」については別議論としよう)、時代の背景を動かす問題への評者が居ず、育たない。最近の若者の40%は本を読まないという報告もある。それならますます「見た目」でしか判断されなくなる。
そこから、僕自身が「しゃべってばかりいる奴にろくな仕事はない」という方に一括りされているような予感が湧いてきたのだ。被害妄想だけならいいが。例えば身近なグループの編集作業や、「見える方」のトップグループ・イベントへの招聘などについてもそれを感じている。(例えば、本ブログ1月30日に記した「伝承をし忘れたデザイン協会」など、その延長上にありそうだ)。


「ラファエル前派」展も、まず人目を引くのは、モリスの妻をモデルにしたロセッティの「プロセルピナ」と、ミレイの「オフィーリア」だろう。カタログもそういう絵を表紙にしている! だから、「見える方」から入るだけで、「プロセルピナ」を代表例にして、「ああいう顔つきの女性は好きでないから」とか、「ああいう女性こそ官能的で美しいから」という理由で、「ラファエル前派」が好きになったり嫌いになったりする、というわけである。それを否定するのではなく、そこには教わることもあるのは十分判っている。傑作と言えるような個人的創作がないと、人やメディアから軽んじられるということだ。


ところで、日本から見て現代のあらゆるアート(建築まで含んでしまおう)を拝見ると、種々雑多、あれもありこれもある。情報交流のおかげで、あらゆることはやりつくされている、と言える。日展などへ見に行けば、これほどまで皆が一様にすさまじい努力をして作品を作り上げているのがわかる。それでいてどこか皆同じだし、同じ枠の中にいる。プロダクト・デザインは科学技術の粋を集めながらそれを人間の感性 (と称しつつも、実際にはマーケット分析の域を出ていない) でまとめる、というところまで来てしまった。一人でやるなら組織を動かせる第二のスティーブ・ジョブスになるしかない。さもなければほとんど工芸作家のようなものだ。建築も日本でこそ、規制が厳しくてとんでもないものは出来ないが、シンガポールやドバイに行けば、もうやることは無いと実感するだろう。
やることは無い?
実はそうではなく、この日本においては、美しいまちづくりなど、やることはいっぱいある。ただパトロンが育っていないし、国は本気で文化を評価しないし、本気で個人を育てない企業体制社会だし、前述の通りメディアも育っていない。それを証明するように、明治に文化を捨てて以来、民間もレベルが低い。このため個人では、本質的な創造行為で出来ることが本当に少ないのだ。そういう中で、まだ新しいものがあるかのように、芸術家、デザイナー、建築家たちだけが夢見て騒いでいる。こういう現状をしっかり認識しておく必要がある。
これが、置き換えてみると、「ラファエル前派」を論じてる人たちや受け取り手の判断が示すものから感じられることだ。「ラファエル前派」の評価も、立ち上げの時から近年まで散々に割れてきたようだし、現在でも展覧会開催国で違っているだろう。
現在の日本が、あと百年ほど経ってみれば、ごちゃごちゃといろいろな意見があったがまとまらず、膨大な創作行為があったが、どれも似ていてどうでもよい、というようなことにならないとも限らない。


そういう時代に、無理して「見えもしない」個人的な単品的創造行為をいくら発揮しても歴史に残らない。まったく新しい表現が見つからないのに、それでもアイデア主義、素材主義、現場主義に陥って勝手な思いの創作に打ち込んでいるのが現状だろう。むしろそれなら、発言や著作も通し、その時々の先を見越した創造行為の連脈が見えるような全体としての仕事こそ、把握されねばならないだろう。活字も社会活動も許されるということだ。そのことを「ラファエル前派」の運動とその評価に見るのだ。
イリアム・モリスを見直そうという気になったのも、こういうことが関係している。
彼はマルクス資本論を読んだためか、社会主義運動家になり、その観点からの著作や言論活動をおおいにやったようだ。その一方で創作活動も怠っていない。これって、現代の日本のデザイナーや建築家に本質的に求められていることではないか。


僕らはモリスと言えば、大学で学んだ後は、あの、現代から見て必ずしも美しいとも思えない織物や壁紙のパターンのデザイナーだったくらいしか認識していなかった、と言えるのではないか。つまり自分も含め「見ただけ」でしか判断していなかったのだ。産業革命の機械化によって社会構造を激変させ、世界の1/4を属領にするような大帝国となり、富を集中させ、貧富の拡大を招き、国中が極度に不安定になったこの激変時代のイギリスに生きたことは、「いい絵(今の我々の言い方ではデザイン)」だけやっていれば済むような時代ではなかったことを彷彿とさせる。
そういう点では、ウイリアム・モリスの生活文化向上への所業、そして「ラファエル前派」とそれに続く作家の活動はある意味で、コンピューターによる第2次産業革命の真っ只中にあり、もはや先行する「真似をしたい文化や国」も無い現代日本での新たな創造活動にとって、改めて大いに参考になるものを秘めているに違いない。






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