五十嵐啓喜教授の最終講義「美しいまち」

【情報】


「美」に議会がまったく反応しないこの国において、土地所有権のあり方をめぐって五十嵐教授の話



今夜の放送大学講義、途中から聞いたのだが、仙田満氏の「環境デザイン」第15講はなかなか良かった。メモを取らなかったので細かく伝えることが出来ないが、心ある建築家にとって当然、かつ必須の知識といえる。ドイツやフランスの例も示し、最後に自分の仕事を例示された。
これだけの仕事が出来たことは素晴らしく、羨ましい限りである。


僕が問題にしてきたのは、こういう仕事(設計)が出来る環境条件を出来るだけ、才能があり、あるいは有望な若者のために整えるにはどうすべきか、ということだ。建物であれ景観の整備であれ、設計の実務や経験が深められないどころか、まったく仕事が取れないのでは、「環境デザイン」どころではない。
選定されなければ報酬の出ない設計コンペに30回応募して、取れたのは2回だけとか、我々の年でもすさまじい話が周辺にある現実なのだから。



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今日、法政大学の五十嵐啓喜法学部教授の退任最終講義があった。都市住環境問題の権威であり、講演などで何度か聞いたが、個人的に面識はない。講演の後や、例えば今日でも自己紹介の形で面識を得ることは出来たのだろうが、やはり法律家の世界にはとても同等には入れないという畏怖の気持があって遠慮した…何しろ、言葉だけで職業を創っているのだ。
最後の方でも触れるが、「美」を言葉でなく、視覚表現として扱ってきた者には、こうして言葉だけで語られるのは、読むのがつらいということも十分想像出来る。我慢をお願いしたい。(於:法政大学市谷キャンパス)


テーマを「美しいまち」とするとし、熱の篭ったいい講義だった。幾分、聞き取り上の意訳も入るが、少々追ってみよう。話の仕方もあり、判っている人には判っているということもあるのか飛躍もあり、さらにメモからなので論旨は幾分乱れ、自分の理解のために勝手な推量も入る。


まず、「日本人は美しい都市を経験したことがなかったのだろう」と話し始め、それを明治以降からの次の点を原因として挙げた。
庶民の生活自体が構造的に壊されたこと。それは、価値の基準がまずカネ、次に便利や効率によって日本人の生活を破壊したからだ、と。三島由紀夫が自殺の前に、この国について無機、空っぽ、浮遊の経済大国になったと言っていたことを思い出すと。
姫路城が世界遺産になったが、これからも多くの日本の城がノミネートされるだろうし、日本の城造りを天才的との国際評価が出ている。
皇居を歩いてみたが、東京についても経済効率からのまちの破壊が進み、第二次大戦の東京空襲で決定的な灰塵に帰した。もし、江戸のまちがそのまま残っていれば、間違いなく世界一、美しいまちとして世界遺産になっただろう。
いかにカネのことばかりかは、選挙でわかる。候補者はその度ごとに経済を第一に挙げる。GDPをみていても、日本はもうカネのことばかり第一に挙げる国ではないだろうに。また、やっと獲得したはずの戦後民主主義が消えつつある。

日本人は大多数が姫路城を美しいと知っているが、「美しいもの」の論理化が出来ていない。それを教えてくれたのがアレクサンダーだった(注:想定される人物はいるが、確認のため五十嵐教授本人の「業績集」をめくってみたがどこにもこの名前がない)。それは、美しいものを構成しているものに「名前を与えることは出来る」ということだ。(例えば「陽だまり」「陽光が差す」「陽の光」といった美しいものに日影が出来るのは困る、ということから「日照権」という名前が生み出されてきた、というようなことだろう)。その流れで、「道路」という言葉はあいまいで定義がバラバラ、通路、路地などになってくると実体感が出てくる、と。その具体例は「瀬戸」という言葉で、「静かな瀬戸」「瀬戸道を歩く」などがあり、江戸時代から共有された言葉だ。こういうところに「座れる階段」があり、道路から身を守ってくれる。ということでこの例を、美しい瀬戸のある真鶴町(神奈川県)に求めたという。
真鶴町は日本で唯一(と思われる)「美の条例」を持つが、この条例化に五十嵐教授は献身されたのだ。そういえば余談になるが、隣になる小田原市もこのことを意識していて、市長と対談したときに、話題になっている。(2013/10/23 当ブログ「まちづくりで小田原市長と対談」 参照)
「道路」の問題は多分、道路交通法のようなものに対して、「歩行権」とか「歩行環境保全権」「美観歩行権」とかいう言葉がある、と言おうとされたのかも知れない。これは現在の「都市計画」とはまったく違い、環境を共有して新しいものを作るということだと述べた。
この問題は、美しい都市と民主主義の問題で、現行憲法において美しい都市が創れることは金輪際無い。また日本は(都市において)美しいところが値が上がるようなことは無い、と。
そして「美に、議会がまったく反応しない」と、決定的なことを言い放たれた。


ここに来て五十嵐教授は、日本の近代化を振り返ってみて、「もう取り返しがつかないかも」と言う。
日本の法体系で明るく基本的人権を謳いながら、現実には無縁社会の個人に逆分解してきている。それはすでに述べた経済情報化(情報中央集権化も含まれよう)と超高齢化によって、地方都市が全滅寸前にあるからだ。
ベースになっている基本的人権に問題があったのは、法環境整備の過程で「絶対的土地所有権」を認めて来たことにある。個人所有にあっては基本的に何をしてもいいということは、「美しいまち」は出来ようがないということだ。もう一つ、今回の大震災を見ても、人口増(被災地に人が戻るということか)を下地にプラン化しており、津波の高さに合わせて防波堤を造ればいいというような考えも合わせて、生き方を考え、変えていかねばならないところに来ている。これまでの考え方での資本主義も社会主義も限界に来ている。
美しい都市はこれまで「見るもの」だったが、これからはどうやって創るかが問題となる。
このあたりから空海の思いや理念が引き合いに出され、低い次元は本能の赴くままに、高い次元は真理の世界と一体の場として、心の有り様を10の段階に分けて説明された。
ここに併記された諸条件をまとめて問題解決に至る考え方、方法論として、教授の考え方の結論として「総有論」をまとめたようだ。「総有」は「所有」の上を行く概念として設定されたらしく、この後、同業他大学の教授や専門家を交えて、土地所有の問題を軸にシンポジウムが開かれた。


思うに、土地を軸に体系を考えてきた法学者に、本来、文系哲学に属するような美学や人間心理学的なことを語ってもらうには、哲学、文学分野の用語に変換しても伝わる言葉を見つけてもらわないと全体把握が難しい。この辺から自分の頭の整理が効かなくなってきた。


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ここからは、自分の推量の話になっていく。
シンポジウム画面に出ていたが、
「土地所有権を見直さない限り、建築基準法は改正したところで、建築・都市は美しくならない」
という極め付きのスローガンがあったことが印象的だった。
しばらく前にあった、神田順教授の「建築基本法制定に向けて」のシンポジウムでは、この「土地所有権」問題への追求は感じられなかったが、主題としている「新しい社会制度へ」の中にある、例えば「ステークホルダーの集団合議を基本とする社会制度をみんなで考えるとき」に含められているのだろうか。
一方、今回のシンポジウムでは、五十嵐教授のように「美しいまち」を意識的に感じさせるパネラーは少なく、いかにも法律論者らしく語られていた。

例えば、土地所有についての全体像は、ヨーロッパでは「すでに分けて考えられている」という。
それは「私的所有権」と「個別所有権」という言い方での、認知と分離への理解のようだ。「私的所有権」は日本人が理解するようなものでよいようだが、「個別所有権」とは、共同体の中で住まう分、これ以上分離できないような条件のある権利で、それを決めているのは共同体である、という(高村学人立命館大学教授)。「キブツ」の入居条件がこの代表例かも知れない。これを「社会的共有資本」と言うそうだ(武本俊彦前農水省官僚)。
この武本氏によると、日本での土地所有権制度の発生は、明治維新に土地利用のあり方から入らず、国家目標の財源確保の方法として「地租」を取りはぐれないように百姓や地主に割り当て、議会に地主が多かったところから、土地は自分のものとしてよい、という裁定になったようだ。


このように、法律学者たちの話は大いに参考になるが、当方に深い予備知識がないと大変、疲れる。


最後に、五十嵐教授がまとめの意見を求められ、聞き間違いがなければ、次のように締めくくった。
「国も行政も美しいまちは創れない。(能力のある)市民が自由に創業することに意味があるが、融資、売買が出来るように法人格を与えよ。そして小さなプロジェクトで、やれることから始めよ。その上で、事業主体がどういうものかを皆で議論せよ」
そこには「地元住民を無視しては国は成り立たない」(パネリストの秋道智弥総合地球環境学研究所名誉教授)、「自然の中に内包された人間社会」(同:茂木愛一郎慶応学術事業会顧問)という考えに共通するものがある。


土曜日とは言え、聴き終わって、これだけ時間を取られた場から小雨の中を市谷の土手を歩きながら、自分はこの知識を何に活かそうとしているのかよくわからず、自問しつつ帰った。

(ほぼ、関心の持たれた聞き取り内容部分の終りだが、幾分の補修は残されている)