資本主義の終焉はピケティにも通じる

【日記】   我々にとって硬い話だが、一つ我慢して・・・

追記:2015/02/22  この日のブログの後、秋深くなって「ピケティ・ブーム」が起こる。後で読んでも、内容的には繋がっている。このためタイトルも、読みやすくするため修正した。ただし、ピケティは自分の論を直接「資本主義の終焉」だとは言っていないようだが。



いよいよ、資本主義の終焉迫る
―やっと出合った納得できる経済からの世界認識―



市場経済を軸に組み込んだ世界の動態を知る。
このことでは、やっと納得できる考えの人に出会った。
とは言っても、一言一言、うん、うん、そうだろうな、という具合で、自分の主観に合わせて納得しているということで、批判も反論ももちろん、論評でさえ出来るような能力状態ではないけれど。そもそも経済用語で語られた著書を読むのは非常に苦しく、なかなか取り付けないという事情があってのこと。


その本というのは、「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫著:集英社新書)。

経済の世界については、いつもアウトサイダー的な心理状態に置かれてきたが、この著者の確信に満ちた経験からの語り口は、しつこいような繰り返しも多いものの、それが素人にとっては反芻の糸口となり、確認しながら読み進めることが出来る。


引用したいところは沢山あるが、要は「資本主義はもう終るが、代替システムが発明されていない。それまではゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレを目指して、市場経済のソフトランディングを進めるべきである」というもの。
そこには行き詰った資本主義の姿が年代を追って説明されている。例えば、

政府より市場の方が正しい資本配分ができるという市場原理主義の考え方を「新自由主義」といい、レーガンクリントン、ブッシュによって受け継がれてきた。資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、資本側のリターンを増やすので、富む者がより富み、貧しいものがより貧しくなっていくのは当然である。(その意味は、資本家は利益を優先するから、市場の縮小に出会えば、労働者の賃金カットや非正規社員化などによって対応するということ:大倉意訳)
ここに、ちょうどアメリカが創ってきた実体のない市場である「電子・金融空間」の発展に合わせて、「国際資本の移動の自由が確保され」、経済政策を「強いドル」に転換(1995;ロバート・ルービン財務長官)したことにより、「マネー集中一括管理システム」となり、アメリカは「アメリ投資銀行株式会社」となり、金融帝国となった。(同書P28〜30)


この事を通して、水野氏は、新しい市場を発見するのが資本主義の宿命だが、ついに「電子・金融空間」という発見(=発明)にまで行き着いた、そして今、その崩壊に向かっている(リーマン・ショックがこれだ)として、資本主義の新市場(歴史的な経過の説明から「周辺」「周囲」と言っている)はもう無い、つまり資本主義の終わりだといっているようだ。


どんどん世界が狭くなっていると実感している設計界も、取り巻く世界を大きく見ると、十分、納得いく状況が起こっているのだ。