ある職業への国の定期講習

【日記】

周到に準備された、「安全・安心・確実のための保全システムへの恭順を要求する必罰法規」受容審査



建築家協会の年次報告会の場だったか、出江寛さんが言っていたが、「この年になって、何を聞こうとするのか。時間も無くなってあくせくしてしまった」というような趣旨の発言があって、会場にいた多くの白髪交じりの建築家の苦笑をかっていた。
何のことかといえば、一、二級建築士定期講習の話である。


構造計算偽装事件以降、建築士への締め付けはどんどん厳しくなっている。あたかも犯罪行為想定者扱いである。違反行為とは、やってしまったがそれで済むという違反ではない。悪意を持ってやったわけでなくても、「懲戒処分」という名目が付いてくるのだ。一般の人がこの実情を知ったら「なんだこれは。建築家はなぜ黙っているんだ」という疑問がうまれてもおかしくない現状だ。
しかるべきところで明らかにするつもりだが、懲戒処分とされる事象を設計経過に従って拾っていったら、8つの場面が考えられた。つまり8カ所のハードル(関門)があるというわけだ。特に管理建築士の場合、事務所の一時閉鎖が求められる場合が少なくなく、小さい事務所では代替方法がなく、事業運営に決定的な支障を来す。

これでは専門の「想定違反行為チェック担当者」でも置いておかなければ、とても怖くて仕事が出来ない心理状態にもなってくる。大手設計事務所で聞いたら、罰金だけでも毎年、百万以上あるとのこと。他人事のようだが、当然のように受け取られていると、われわれでも気が付きにくい。どうりで、設計行為に日々おののいているかが納得できる。


それに関して、ここで語ろうとしたのは、一般の方々にも知ってもらうための、話しをできるだけ一般化した「義務づけれられた3年に一度の建築士定期講習の受講印象」の話である。
もっとも大前提に「建築家とはどんな職業なのか」という設定が必要であり、それによっては「こんなの当然じゃないか」と、言われて国交省も「これしたり」と膝を打つ考え方も十分あるのだ。それゆえにややこしい。要するに「建築家」という理念的存在と、「建築士」という現実的法定資格者の違いの問題である。


これまでの建築家自身の建築家像は、巨匠という言葉が使われてきたように、空間のあらゆる決定について最高の個人としての判断者であるという認識だったが、マネー資本主義の浸透、ネット・グローバル化、専門性の溶解などによって、個人能力の限界が露わになった。それを危惧して一層、建築デザインに寄り添う動きが生じていたところに、安全・安心を脅かす構造計算偽装問題が生じ、資格付与により建築物を管理する責任を取らされる国交省は一挙に規制側に回った。
これで判るように、「建築設計という職業分野」には、芸術と技術の間、つまり「感性」と「論理」の極大の集約が必要である。現代の複雑化した社会において、個人の内に感性知や、それと無関係な技量や科学技術的成果の両方を収め込めることがもはや無理を承知なら「一技術者」にならざるを得ない。感性知だの個人能力だのは社会的公平ルールとして宛てにならないからだ。
こうして国も社会情勢も、あいまいな「建築家」はどうでもよく、「建築士」としての技術者しか認めないということになったのである。
これで問題が片付けば簡単だが、「建築家とは何か」という問題の本質が片付くわけではない。そこには、まさしくこれからの社会に求められる技術と文化の融合や、その判断による社会的表現はどうなるのか、という本質問題が討議されていないからである。


悪意はないにせよ、国の安全を旗印の設計者規制が進めば、その国のその分野の職業人はその色に染まっていく。つまり「建築家」はいなくなり、「建築技術士」だけの社会になる。それを当然として一層の調教と規制をかけていこうとする情報ツールが「建築士定期講習」である。

(後述のつもりが、何かここまで書くと、言いたいことを言ってしまった気になってきて、書けなくなった。要は、試験内容が、暗記確認と新しい規定などの紹介確認になっているということだ。「ここが引っ掛かる(違反、懲戒処分になる)」というチェック・ポイントについて知っておく意味で講習は有効だが、「試験」として採点するようなものではないのではないか)