折り合いのつかない深い溝なのか

【日記的論】     ●●●文中このマークのある部分の「論文発表」の内容を、12月12日の本ブログに 「Designを二元化せよ」としてアップしています。




そうか、そんなに溝は深かったのか。
愚痴は言いたくないけれど・・・
閉塞状況を変革させるための暴発なんて認められない、というより、考えもつかない?

―変化する日本社会、じゃなかった。変化を拒む日本社会なのか?―





日は過ぎたが、まず16日、日曜日の追記から:
今日の新聞記事に野坂昭如の「シャボン玉、日本」という新刊の書評が出ていた。脳梗塞か何か患ったらしく、しばらく情報が無かったが、世代が近いのだろう。ここで推定する内容が似ていそうだ。
 次に20日、面白いことに似たようなコメントが出ていたので部分転載させてもらおう。「週刊新潮」11月27日号の「藤原正彦管見妄語」274回である。以下の本文中にクリップマーク●で挿入。


       *       *       *


では今夜の話。ただし、まず主題に関係ないイントロから。急ぐ人は、スキップしてください。


―金曜日の夜ということもあって、赤坂の町はどこの店も超満員。景気がよくなってきたからだ、という話もある(大手企業だけだろうが)。しかも、ここは7丁目辺りのいわば、場末である。それでも9時半過ぎというのに、どの店も6人というとお断り。ちょうど仲間が6人いたのだ。
周辺が暗がりとなる中で、「もうどこでもいいや」という気持ちになっているときに、小さな案内、しかも鉄骨の狭く急階段の2階の店があった。「時間もないし、どこでも軽く食べられればいい」ということで、この店に入った。
小さなイタリアンの店。この時間なのに、案の定、客は誰もいない。母親と息子で経営しているらしい。
ともかくも、ワインを頼み、順次、勝手に注文した。
不思議なもので、我々がいたら、途中からどんどん、客が入ってきて、20席位しかない店がほとんど満席になった。
ワインをボトルで2本、アンティパストを6皿、パスタを4皿取って会計を求めたら、一人1800円だった。しかも一人は講師扱いで分けて受け持ったから、もっと安いはず。しかも十分旨かった。
我々はほとんど、看板や、見た目の店構えや、行きつけの店にしか行かないが、内容は外観や宣伝ではないということを改めて教えられた感じだ。ただ、残念だが、こういう出会いは偶然でしかない。いい設計者でも、名前もない、見せ場もないなら、どうしたらいいのだろう、と改めて思う。
以上は余談。ー



今夜この場で、改めて思い知らされた別のことがある。この話から、しばらく前に経験した学会発表に繋げよう。


このグループの集まりで集客用の案内チラシを作っていて、皆がテーマに沿って勝手に自分の想いを述べるという仕事をやってきた。
そこで僕は「くつろぎの空間なんて言ったて、誰がどのくらい理解するのか」というような「暴言」を承知で書いたら、担当番だった建築家に「そんなこと言うなら私は降ります!」と言い出され、一騒動があった。
自分から火付け役をやったからではあるが、今夜、僕がこれをまた言い出して、火が付いた若い世代の者にこのことをまた蒸し返され、「(何も知らない、あるいはもてなすべき)「お客様」を相手にしているのを知らないで勝手ことを言うなんて、ガキ!」とまで言われて、強烈なショックを受けた。
それに対して、本心は違和感をもちつつも、反論する術が見つからなかった、と言うより言っても仕方がないという気持ちだったのだ。というのも、セミナーでも、僕は来客すべてが「お客様」だなどとは思っていないからだ。聞いて改めてショックを受けて問い直す、そういう人もいていいはず、というこちらの実感もあるからだ。でも、そんなの駄目らしい。


実は昨日まで、クリエイティブ系6学会が集まって、東大で「デザイン・シンポジウム2014」が行われていて僕もスピーチを受け持っていた。(●●●トップ参照)
しかし開催の3日間、ずっと出席して感じたことがある。それは、ここは恐るべき「学会の色」に染まっているのでは、ということだった。
それを裏付けるように、会議後のパーティーで知り合ったある若手教授は僕の発表を聞いていて、その印象を「野性の研究者」だ、と言った。これはちょうど「学会の色に染まっている」という言い方の逆であるから、言い得て妙、という印象になった。翻って、発表した多くの大学関係者は「ある意味で家畜だから」ということでとりなしてくれたようもに思うが、それほど異端なのかを知って愕然とした。
「家畜」という言い方は、当方都合の解釈では、若手の大学教授や准教授、講師などの発表の姿を見ていると、恐るべき体勢順応型に見えてきたということと同じだ。
つまり研究発表の内容は、主任教授や担当教授の意に沿うように準備し、また教わる。テーマは大学に持ち込まれた企業の需要に合わせているとか、教授の関心テーマの手伝いテーマや関係問題。独自の研究となると、バカとしか思えないような研究内容だったり。どんな場合でも、このような発表をする者は、スーツにネクタイの「誹謗中傷のされようもない」まとまった「いでたち」で壇上に立つ。


これを見て、「何だろう」と僕は思った。これでは「デザインの新しい位置づけを求める」という趣旨だったはずのシンポジウムは、新人の研究発表練習の場でしかないではないか、と。僕も感心するような新地平を見せてくれた発表者はいなかった。しかし、誰もこのことには疑問を持たないようで、和気あいあい、静かに進行していく。しかし確かに、こんな場所でわめいたり、怒鳴ったところで何の意味があろう。
無念なことにというのか、唖然とするというべきなのか、若い研究者は皆このことを十分、承知しているようにも見えた。物凄い量の情報把握の中で、「何が得で、何がバカか」を素早く見つけ、有利な方につき調整を図る…。
東大では入学後の学科編成で、建築学科がまったく人気がなく、あふれた他学科の学生がどこか空いている学科はないかと探して教えられるのが、この学科だという。生きるのが大変、食べていくのが大変、という将来の職業はすぐ見分けるのだ。好きだからやる前に、安定と経済効率を計算する。大手企業、官公庁勤務など以外は、ますます差別化され、非保全化されていくわけだ。


そういう状況を、さらに凍らせる発言を、藤原正彦がしている。以下に挿入。
●「日本人にはユーモアがない」とよく言われる。…
確かに日本人は公式の場では論理的かつ官僚的だ。教授会をはじめ私が出席した国や民間の会議のほとんどは、公式であればあるほど予め決められた議事進行に沿い予め決められた結論へと粛々と進んでいった。荒れることもユーモアで爆笑することもめったにない。…●


自分の考えや想い、なんてものではない。客観性という便利な言葉が優先して判断基準になっているのだ。
今夜のなじられ方も、彼らからすればまったく理解できないから正直に思うことを言った、ということなのかもしれない。客の前では、客の気持ちに合わせてふるまうのが当たり前なのだ。
そんなことこっちだって十分知っている。
でも、意図があれば想いを言ってしまい、その場を波立たせることがあっても仕方がない場合だってあるんじゃないのか、という気持ちは拭えない。


そこでわだかまりの取れない僕が、よせばいいのに今夜、発表したシンポジウムの体験を話し始めてみたわけだが、聞く耳をもたない。
遠慮して「発表したが野性の研究者と言われて…」と言いかけたところ、「だって、こんな明白なこと(お客様を心得えて発言すること)が、そのこと(学会発表の印象)と何の関係があるのか」と笑い出されるわけである。そこには「野性の魅力」なんていう想いも配慮も全くない。
住宅設計などを中心にしていると、これまでの建築家の偉そうな教えてやる式の付き合いではだめで、「お客様目線」に徹底しないと話にならない、と自覚した連中がはっきり、「それしかない」という覚悟を示したのだ。そこにはお客様目線以外の認知力は全くない。


日本の社会は、ここまで安定し体制化した。新しいことや体勢に逆らうことは、言うことも行動することも難しい。
その場で最後まで打ち解けて話込んでくれた友は、二人だけ他の会話から離れて言った。「大倉さん、僕らは年を取ったんだよ。僕らのある時代までは、正義感から、とんでもないことを言ったり、やったりすることで社会を創ってきたが、今はそうじゃない。でも、だから言わない方がいいんじゃない。自分の考えは言っていくべきで、それでこそ、大倉さんらしいんだ」と言ってくれた。
そういえば、話の次元は違うが、吉村順三は皇居の設計で宮内庁と対立して自ら降りた。今、そんな建築家は見当たらない。


僕には、自分の意見をはっきり言って、互いに調整するというイタリアでの10年の経験もある。とどのつまり、自分の意見を決めるのは、人とのいさかいをもたらさないように抜け道を見つけることだ、という日本人独自の考え方の問題、つまりそれを問題とも感じないような国内事情の問題でもあるように感じてきたのだ。

(エールを送ってくれた友人名を出して話題としたいが、残念ながらグループ名が割れてしまうので出来ない)