また藤原正彦氏の意見から

【日記】


見えてくる「怒り」の本質


ノーベル賞受賞者の人格についての意見に思うこと


この前に書いたことと関係するが、引き続き難しい問題を。
前の週で見ていた「週刊新潮」11月20日44号に出ていたこと。
例の青色ダイオードノーベル賞を貰った中村修二氏の言動については、偉い、よく言うという賛同の声と共に、どうかと思うという藤原正彦氏のような意見もある。
例の「管見妄語」273回の「神様の御高見」。
受賞日のアメリカでの記者会見で、中村氏が謝辞ではなく「研究の原動力は怒り」と言い放ったが、「少々行儀が悪い」というのだ。
来日して「(アメリカのように移民を受け入れず)みんな同じ日本は崩壊する運命」「アメリカは理系社会、日本は文系社会。文系が金持ちの国は後進国」「日本は第一言語を英語、第二を日本語にするくらいの大改革をやらねばならない」「アメリカでは優秀な研究者はみなコンサルティングベンチャーをしている。上場すれば何十億、何百億にもなる。日本の研究者は永遠のサラリーマンだ」「アメリカではプロスポーツ選手と同じように科学者の動機付けはお金だ」「アメリカに比べ日本には本当の自由、平等がない」と言っているが、私(藤原)もアメリカで教えていたから数学者を多く知っているが、そんな人、「一人も知らない」とし、貧富の格差、乱射事件、壊滅する医療などを知っているから、「これほどのアメリカかぶれは今時珍しい」と言う。
「仕事の環境は米国の方が断然いいが、それ以外は…日本がベスト。仕事が出来なくなったら日本で暮らしたい」と言っているのを聞いて、藤原氏は「日本語を捨て、移民国家となり、研究者をはじめ人々が金儲け第一となっては、日本の文化も環境も地に堕ちると思うのだが、ほとんど何も深く考えず思いついたことを口走っているとしか思えない」とし、「輝かしい専門的業績はすぐれた英知や人格を意味しないのだ」と「憤慨」し切り捨てている(もっともこの後に息子に、「言わせておけば、ノーベル賞がどんなものか判る」という意味のことを言わせているが)。


もっともだと思う。異論の出しようがない。だけど、何かちょっとだけ言いたくなる…何だろう?
(以下に後述:11月23日)


まず、「専門家バカ」というのはどこでも知られているだろう。数学者でもかなりの専門バカが多いのは藤原氏も知っているはずだ。それは専門業に取りつかれると、限られた人生の中で、生きていく約束事を消化するのに、全体にバランスよく時間配分などしていられない実情があるからでもある。
それでもそうは言わずに、常識がない、アメリカかぶれだというのは、藤原氏の生い立ちや現在に至るまでの環境に関係すると思われる。父親が新田次郎ですでに知られた文学者だったし、本人も恵まれた環境に育ち、変人気取りをしているが、充分、日本社会を熟知しバランスを考えているのが判る。最近ではミリオン・セラーの著書も出している有名人だ。
それに引き替え、中村氏は徳島大学を出て、名もなく、どこへ行っても有名大学出の後塵を拝されてきた。アメリカに行ってからも日亜(元勤務先)から訴えられ逆提訴する羽目になった。多分、日本にいる時とそのあとの訴訟騒ぎを通して、裁判の結果を含め日本人の持つ嫌な面を十分味あわされたのだろう。追い詰められ、体感した日本社会の持つ悪弊が、対極として接したアメリカ文化への傾倒となったのだろう。もちろん「専門バカ」だからアメリカを、行って知った大学教授の世界からしか見れないことも十分考えられる。
それでも、比較にならない研究への自由さ、マネー経済思想が全体に行きわたっていることからの寄付文化や金銭的要求への大らかさなどは、日本にいては絶対感じられないものとして吹聴していることは、僕には十分に受け入れられる。もちろん、それをそのまま日本に持ち込むというのは、最先端の問題意識からすれば調整が必要だろうが。
何をおいても中村氏の、ノーベル賞受賞者という看板をも恐れずに言う「研究のモチベーションは”怒り”です」という単純な帰結は、まさに、愛すればこそ日本人と日本人社会の「長いものには巻かれろ」に代表されるタブーに喰いついてやろうという観点からすれば、絶対に誰かが言い出さねばならないことであったと感じるのである。藤原氏にも、そのくらいの読みと理解を持って貰いたかったが、やっぱり本質は「お坊ちゃん」なのだろうか。


追記:ここでは論じていないが、中村氏の発明特許に関する主張には深く共感するものがある。ただし深層における国情などを懸案しての旨い法制度づくりが必要だと思い、単純に返事が出来ない。実は(社)日本インダストリアルデザイナー協会理事長になる前に「契約と報酬のガイドライン」を事務所が赤字になるくらい努力し1年かけて作成し、現在に至るもこのレベルを超えていないと思われるが、デザイナーや建築家の業務報酬に関する関心は誰にも負けないつもりだ。しかし、あまりに仕事が拡散してしまい、しかももとより、この方面は専門家ではなく、これ以上時間が取れないし、ひらめく能力もない。ただ言えることは、特許と意匠では比較にならない論点があるものの、また言い方は違うにしても中村氏の「特許は会社のものには”猛反対”」の底流にあるものへの深い共感があることもエールを送ることに繋がっている。