磯崎新の後はいない

【論】 磯崎新(いそざきあらた)は1931年大分県生まれの83才。東大から丹下健三事務所を経て独立、現在も活躍する建築家。

My opinion about Arata Isozaki, architect.



磯崎新の後はいない


青山通りは地下鉄外苑前辺りから千駄ヶ谷に抜ける道にあるワタリウム美術館で、「磯崎新12×5=60」という展覧会をやっている(1月12日まで)。
この展覧会が見せたいものはよくわかる。
ポイントは磯崎が建築以外に何を考えてきたのかを見せたいのだ。
それは凄くて、必死に考え行動してきたのがよくわかる。何を追いかけてきたのだろう。


まず感心するのは、軽井沢にあるという別荘の分室とでもいうべき、木造超高床式の四畳半書斎だけの小屋の再現である。もう模型ではなく許可を得れば上って中に入れるが、それが「思考する実在のかたち」を代弁しているからだ。「そこで思考する、見えるミクロコスモス」ということだろう。


部屋というより仕切りに入って目につくのは、ミースやカーン(という建築家)の全集を除けば、読んできて影響を与えたらしい2、30冊の和書だ。多田富雄松岡正剛杉浦康平吉本隆明横尾忠則高橋睦郎、三木富雄、中谷宇一郎、辻邦生松本俊夫、といった聞き覚えのある人には懐かしい作家やアーチストの名前が並んでいる。これらの書がこの四畳半にわざわざ置かれているということは、これらが磯崎に決定的な影響を与えたか、親しみをもって読めた本かのどちらかか。あるいは親しく付き合った仲間というような面でもあるのか。
決定的なのは隅に小さく飾られている瀧口修造の、「空間へ」の自筆推薦状だ。
「空間へ」は1971年出版の磯崎の大著で、当時この本を買って読み始めたが、どうしても理解できないレトリックな文体と見えて、途中であきらめた記憶がある。それ以来、磯崎の文章は訳が分からないと決め込んで読む気にはなれなかった。当時、自分の進退が見えず、目的も定かでなかったガキに影響を与えることはなかった。
今、最近のものを読み返えしても素読の難しい部分がある。 例えば、丹下健三岡本太郎との協同作業についての議論から、聞き手の藤森照信が、「丹下のアンビバレントさがデザインの命のような気がする」 とし、それを 「独特の弁証法を使う」 と言い換えていることが誘導質問になったような面もあるが、それを受けて 「丹下さんの場合、早くディアレクティークに行き過ぎる…最後は弁証法的に総合されたんだというふうに結論づけちゃう。論文の構造がそうなっている。…ただ、僕はアウフヘーベンが壊れた、成り立たないというところから出発したいと考えたせいもありますよ」 (「新建築」誌「戦後モダニズム建築の軌跡・丹下健三とその時代」1998・11〜1999・11)というような文章なのである。


会場の最上階に、自分の出版した本が並べられているが、これが凄い。建築をしないで文章ばかり書いていたのではと疑りたくなるほど沢山の書を書いている。特に岩波書店の「磯崎新建築論集」1〜7巻、鹿島出版会の「磯崎新著作シリーズ」全9冊がそれだ。

芸術家、演出家、デザイナー、映像作家、文筆家などとの交流や、協力イベントなど多さと実績が、この展覧会の主要な紹介内容になっている。岡本太郎剣持勇勅使河原蒼風、石本泰博などとも親交があったことでもわかる。皆、ある時期にはそうそうたるメンバーとしてマスコミを賑わしたものだ。松本俊夫についてはビデオ映像で作品が流れているが(「気」1980)、一時期、僕自身のめり込んで映像作家になりたいと思っていただけに、他人事のような気はしない。


トーンが過去形になりがちだが、ある意味で、磯崎が過ごした 「建築が社会的に過激であった最盛期」 は過ぎた。
実際、2005年の出版書のあとがきで本人自身が、「人も建築も都市も、今世紀も生き続けるだろうが、はからずも、これらの文は二〇世紀に生きた人、建築、都市への私なりの挽歌のようにもなってしまった」 と述べている(「磯崎新の思考力」王国社)

ここにあるのは、だから想い出になるが、それで済むものではない。磯崎や黒川紀章が残しているものは、その前の世代が残したもののフレームを利用して、建築家を無視し始めた社会構造に切り込むアーティストとしての乱闘であり、それだけにその後の世代にも大きな影響を与えたからだ。
社会がどんどん組織化され、それをカネで解決していくような方向に向き、他方で技術的な進歩が個人を超越していく。これを追う官僚は頭で考えた社会構造をルール化していこうとする。政治家はこれを新しい社会の有り様を模索して作り替えることなど出来ない。追認するだけだ。こういう社会的な背景にあって、自分が獲得した用語で変革を語ろうとするとき、すでにメディアはついていけず産業界も関心を薄め、おのずと社会から浮き上がってしまったのではないか。
狂信的な努力は大いに認めたい。ただ、それが本当に自己満足だけでなく、社会変革のために意味があったのかと考えてしまうのが、僕の属する世代なのではないだろうか。
つまり、意に反してだろうが、結果的に建築を拡散させ、難しいものにしてしまったのではないか。
磯崎と丹下とのやり取りを見るまでもなく、その昔には丹下自身が川添登と「日本伝統論」などでやりあっていた。こういう建築界を見ていたガキは、とても恐ろしく難しく近づけない世界だと思わずにはいられなかった。磯崎はその名残のようだ。
僕は建築をもっと易しくわかりやすくしてもらいたいというのが夢だった。すでに社会的には十分認められた職業だと思っていたのだから。ところが現実は大きく違っていた。


この展覧会を見て、自分なりの言い方に変えよう。というか、その後の世代の置かれた立ち位置からの言い方に変えてみると、どういう言い方になるか。
現代日本の経済格差化と規制強化をもたらしてる資本主義体質に反抗して、ある世代の建築職能リーダーたちがアートや芸能、映像の方に行くのは個人の自由だが、その分だけ必要だった、安全や安心、健康、安らぎ、地域性への適正力担保、構造や設備、コストや省力(今で言う省エネ)への分業分担表明、さらには来たるべき超高齢化社会についての建築家としての社会的存在意味とそこからの価値についての言及、これらすべての法的整備への学際的な布石活動と組織化や政治家の巻き込みと言った、いわば対極的とも言える世界への実現努力は怠ったのではないか。いや、むしろ、創造性への個人的な前衛活動こそが建築家の救済につながる、と短絡したと言った方が適切かもしれない。
しかし、この職能が持つ個人に依存する能力の開花に要する時間サイクルに比べて、社会変動の方があまりにも早かったということは言えるだろう。その観点からすれば、磯崎をまな板に乗せて語るべきではない。我々も振り回されてきたのだ。
空間の感性的価値を、経済的利益を伴うよう立法化する。そのことに手を付けることが出来ず、そのつけが来ているのが現在なのだ。
(敬称略)