Designを二元化せよ 

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【論】 学会シンポジウム発表内容の紹介
ー「Designを二元化せよ」ー 
( この論文発表での「周辺情報」は、本ブログ11月14日付 「折り合いのつかない深い溝なのか」を参照ください )




去る11月11〜13日に行われた、建築学会、デザイン学会、精密機械工学会などの6学会共催の「デザイン・シンポジウム」での発表内容を以下に紹介します。
一見、難しいことを言っているようですが、内容は明快のつもりです。
現在、特に日本では感性的なデザインと論理的なデザインが並立しているが、そのことへの「共存の論理がない」ことを問題とし、当面、両立させて評価すべきだ、と述べています。

論文のため、気楽に読めなくなっている可能性もありますが、司会の先生から「インパクトのある発表」として紹介されたものです。
ご参考までに添付します。
お時間の余裕と関心をお持ちの方はどうぞ。


発表は東京大学先端技術研究所内ホール(駒場)。発表日:11月12日。





6学会共同Designシンポジウム2014
一般講演(講演番号:2104)


Designを二元化せよ             
Share “Design” by Duality


大倉冨美雄 (日本デザイン学会)(NPO日本デザイン協会)
FumioOkura (Japan Society for the Science of Design) (NPO Japan Design Association)


Considering the difficulty of education and daily activities, we should divide design thinking into two ways and mix them again: i. e. logical intuition and professional imagination.


1. 一般認識の拡大

日本人のデザインへのイメージが大きく変わりつつある、あるいは「日常用語化しつつある」という方が正しいのか。深化か、拡大か、あるいはその両方なのか、議論のあるところだろう。
拡大というにしても、「デザイン」の概念を極めた上で使うのではなく、汎用化に乗って「どんな場合にも使えるようになった」との、いわば不確実なイメージから使っている場合が多いと思われる。これを前向きに受け取れば、確かに「デザイン概念の拡大=一般認識の拡大」となる。
その場合、二つの理解と使われ方がある。一つは、戦後からの「ファッション」の流れに見るように、色や形態を駆使した、新しい(流行性の)視覚的表現にとどまるこれまでの流れであり、もう一つは「計画性」という意味の、より深い理解からの使用、例えば、機能の再評価、素材の選択、生産技術の吸収、市場ニーズの把握などへの配慮を含む。ここへの理解があれば、もう少し想像力をたくましくすれば、「国家のグランド・デザイン」とか「損保のデザイン」などまでの展開まで行けてしまう。


2. 追い詰められて科学に向かう心

一般認識としてはこれでもいいが、こうなると「デザイン」を行い、または語る当事者たち(以下「当事者」)にとっては、その分、より精度の高いデザイン認識を持つ必要に迫られている、との脅迫観念のようなものも出て来そうだ。そこには、社会の職能分化の進展、情報把握の簡略化と至便化、経済効率の優先化、日本人にとって模倣してもよい国が見えないこと、そして最近は、コンピュータ活用による社会コントロール(ロボット化やBIM化=Building Information Management:施工から設計に遡る建設管理システム)の可能性の拡大など、一般状況からの圧迫感も大きいだろう。それは「時代の転換期(パラダイム・シフト)」と言われる現実の社会状況への合意から生じていると言えそうだ。その背後には近代合理主義に沿って蔓延した資本主義経済の金融万能化(カネによるすべての計量化)の結果も働いている。
ところが、その精度を上げるべきデザインをサポートする論理は、その分、科学的な方向しか見えていないように見える。もし、この状況の進展にブレーキをかけるものがなければ、つまりこの社会に「生身の個人が感ずる美醜や好感度、自分で出来ること」など、言葉にしにくいものへの「社会的な許容力」が育っていなければ、科学的判断力への強制感は留めを知らずどんどん拡大していくことになる。これが結果的な論理や規制への強化とそれらへの合意にもつながる。ここには、社会に存在する定量化、システム化できなければ評価や実践の価値がない、感性的なイメージでは評価のしようがない、という暗黙のルールが大きく働いている。
これは当事者たちが専門分化され、あるいは、俗に言えば、専門バカになった「村」の中にいるために知りえないのかもしれないが、そこには知力だけでは考えが及ばない日本社会の不文律や闇があり、それを読み込め切れないという問題にも転用できそうだ。その根本は、デザインが、あらゆる社会的なアウトプットを受け入れうるという概念的な広さを持っているために、能力的にも、物理的にも手が廻らないことにあると考えるのは、前述の社会状況への判断から見て、むしろ当然であろう。
このように、当事者たちが真剣に考えれば考えるほど、総合化を求めると称しつつ、納得された手法として分析科学的な方向に向わざるを得ない状況が生まれているのではないだろうか。


3. 考えが及ぶ世界で満足している

 そこにあるのは、経験知の限界ということだろう。例えば、大手企業のデザイン部にいた後に教職についたような場合、現場実務を含め、そこからの利益の算出法(全視野からのデザイン料の設定)についての苦悶経験は少ないだろうし、個人として手を染め、汗を流してものつくりでしのいできた場合、言葉の仕組みや論理構造などへの知識、そこからのメディア発信の技術、更には一般市場の情報などは得にくい。そして背景にある、日本の特殊な産業構造の成り立ちに戻ってデザインの位置を規定することが明確になっていない以上、どこからデザインを語ってよいのかも決まっていない。そのような未確定の原野では、要領がよく、メディアや学会での立ち回りのうまい者が有利になるような日常生活面の知識も視野に入れて考慮せざるを得なくもなってくる。
更に、グローバル化の負の側面について語られることは多い(日本文化の独自性が失われるなど)が、日本という国が明治以来積み上げてきた「輸入文化」の消化と吸収の過程で見え出した、「感性的価値としての文化の社会的実体性への軽視」(政治家も経済人も、さらには国民一般も文化への理解が低いなど)について、先進国間での視野で見ると、逆にグローバル化(外国情報の体内化)も必要な時期に来ている。改めて国際的なレベルの創造性を、個人の評価を含めて経済システムに乗せていくという課題である。しかしこれは、語れても方法の提示まで出来る当事者はやっと出てきたかどうかの状態である。
ここから、日本の社会が定量的なものの評価しか公認できないでいるならば、限定された経験と、社会が認めると思われるアウトプット方法だけにこだわり、デザイン理論もおのずと、定量的、部分的にならざるを得ないと考えている人たちの世界で埋まるのである。こういう中で、これからのデザインを、まさにそのデータと言葉に置き換えて語ることが求められていて、それを実行しなければならない立場に居るのが大学教授や関わる評論家たちなのである。


4. 「戦略的直感」と「想像的直感」

デザインを「新しい創造」のための方法論的な追求要素だとすれば、そこにはシステム化の要素とイメージングの要素が考えられる、とするのが本論の主張である。そして、それぞれが「直感」に支えられているとすれば、それらはいわば、「戦略的直感」と「想像的直感」に区別されるだろう(参考著書:「戦略は直感に従う」W.ダガン著、東洋経済新報社刊。ダガンは後者を「専門的直感」と称している。p52)。ここには、後者のように非論理系で経験値や感性に支えられているデザインの概念も存在が認められている。
本シンポジウムが「『設計』や『デザイン』を包括する上位概念としての“Design”を対象とする」(募集要項)以上、つまり最高概念としてのデザインを問題としている以上、当然、この「想像的直感」に属する分野を捨て置くわけにはいかない。しかし、6つの学会に共通しているのは、先読みでは、相手にしているのは「戦略的直感」のように読めるため、あえて意見具申するものである。
なぜそう読めるのかは、経験知を含めて判断すれば、これまでの多くの「当事者」の論も実績も、ほとんど戦略的か創造的か、どちらかに偏っており、両者の均等バランスを主張する者が見当らず、また両者を掌中に収めて活動する者も残念ながら知らないからだ。前述のとおり学会関係者は「戦略的直感」の方の論理化を正論としていると考えられるのである。


5. 二値を統合することの難しさ

論理・戦略系直感を相手にしている研究者には、感覚・想像系直感は、得体が知れず学問になりにくく相手にしたくないという心象が読み取れることは述べた。一方、感覚・想像系の当事者は多くの場合、論理・システム的な説明がうまく出来ない。それは「言葉」をツールにし得ないことを感知しているために、デザイン行為について「言葉」を信用していず、従って「使えない」ためでもある。
具体的には、例えば色についての感性は、いろいろの色を塗りたくっているうちに、ある美を「発見」するのであり、そのきっかけから他のケースや、近似の場合にはどうなるのかを試み展開していく。そうこうしているうちに、既存の「デザイン」や美術作品から啓示や納得を貰う。これは「類推」という作業であって、データ分析の言語化による思考ではない。もちろん求める方向は、諸条件を総合した上での「ある美や調和の具現化」であり、学習にしてもルートは全く別で、まさしくその偏向した「類推」部分を美術大学などがやっているのである。現実に、視覚化して見せるのは、この「類推」を直感に高めた感覚の形成によるのである。これを一人の人間のうちに内包させるには、教育システムや受験制度からして見直さなければならないだろう。まさにパラダイム・シフトなのだ。


6. 「二元化」とは二値の存在を示し、
「合わせてDesign」 を伝えるものだ

そこで、ここでの結論としては、いささかステレオタイプの分類になるが、これを知り、統合するためには、一元化が難しいと知った以上、「デザインを二元化せよ」という提案になる。どちらかをDesignだとするのでなく、一般的には一人では持ちきれないこの二元性を合わせてDesignとするのである。「二値化」することによって、少なくともDesignの茫漠的でありながら包括性を持つ意味が、一般的にも認知可能になると考える。「二元化」と称し、「ステレオタイプの分類」とも言うのは、前述の論旨から、Design認識が、「社会的に、いまだ形成過程にある」ことを明示する必要を感じているからでもある。教育され認知されれば、このような言い方は必要ないかも知れない。
個人でこれを併せ持つ人材がいないとするわけではないが、非常にまれになっていると思われる。現代の経済コストや「市場」への認識、近代科学と技術の進歩とその逆の負荷、エコロジーやエネルギーへの理解などは、時代的にはとても過去とは比較できないどころか、かっては意識にも無かった時代だろうが、分析的な精神と美の表現力を併せ持っていた原初的なDesign認識の持ち主としては、レオナルド・ダ・ヴィンチを挙げたい。最近では、スティーブ・ジョブズなどは当てはまりそうだが、残念ながら、「出てきたものを選ぶ」という能力がそれにあたるかどうかは未解決だろう。経営力をどこまでデザイン認知に組み込むかも未知だ。美的感性を持ち、意識してこれを表出しようとした工業技術者はこれまでもいた。車のフェルディナンド・ポルシェ、構造設計家のピエール・ルイジ・ネルヴィなどで、「二元化」を個人の内に秘めていたと言えよう。

参考までに、日本デザイン学会環境デザイン部会が2012年に出版した「『つなぐ』―環境デザインがわかる―」(朝倉書店刊)において、私の受け持った「取り組み方」での主張を以下に転載し、加筆追記もしておく。論旨は重複するが、ここにおいて「環境デザイン」の視点から本問題提起を行っていることが理解されれば幸いである。


7. 育てられなかった個人の感性能力、
結果としての個人に帰属する専門性の軽視

『環境をかたちづくる要素は、視覚的なものばかりでなく、五感に触れるあらゆる要素が関係する。その風土性(土、風、光、水、緑などと共に地域性が持ってきた社会生活習慣など)や、集住化、都市化の問題(エネルギー、交通、物流など地域産業の影響など)が重なってくる。データ的要素も多く整理も必要だが、感性的な判断でしか選択できない要素も少なくない。
一般に考えられているデザイン決定の要素とは、データ分析(住民意見の集計結果とかコスト分析などの数字、さらには時代背景による地域性や経済性の分析)、それらの科学的な実証(実験によって確かめること)、その上での言葉による論理認証(法の解釈などから説得力、他の事例を示す必要)などである。これらが行政や企業の政策・企画内容や行政・経営判断の決定要因とされている。それは経済コストの大きい物件や社会的な影響などが大きくなればなるほど、さらに重要になると考えられていよう。
これらは、データのみを信頼したり、安全・安心などの技術的必要条件充足で満足するなどして、環境の現場が持つ力―例えば、ある位置から見た場合が特に美しいとか、更には「地霊」の声を感じ、それを表現したいなどという判断―を評価しにくい傾向を生み出しやすい。
他方で、視覚化を軸に環境デザインを考える専門家(当事者)は、一般にこれらの分析的な考え方を深く検討することに弱い面もある。絵画や「デザインの基礎」などを通して専門化されただけの感性的判断では、言語や数理などの論理による説得力に及ばない。そうなったことについては、日本の教育と行政の姿勢が創った影響が大きく、現在までの義務教育で感性面の教育が、大学受験上、暗記と理数系知識が優先される中で軽視されてきたことに大きく関係していよう。そこに、「二元化」理解の意味も重要さもある。


8.必要条件満足だけを越えるために

専門家(ここでは「想像的直感」だけの当事者)の経験や、感性を集めた判断を軽視するやりかたは、やはり「片手落ち」であり、「美」そのものや「美」への評価、「想像的直感」など、「出来るだけ感性的な判断を組み込んで行くよう、デザインを変革していく必要がある。このような状況を軽視して、設計を進めたり、条令を施行したり意見書をまとめることは、Designを扱う以上、許されるものではない。
民度としての若者の美的感性は向上して来ているが、新しい環境デザインを創り出すデザイナーは、実証しにくい分だけ、意に沿わない表象の決定にならぬよう、説得への新たな方法や努力が求められている。』

以上が、転載部分だが、ここでわかることがある。本文が、いささか問題解決への方法論を欠いた展開に留まる気配があるということだ。論文扱いだから当然かも知れないが、この解説文では「当事者」たちしか読まないし、理解する、しないに留まるだけだ。
デザインの重要性は、「他者の眼」すなわち一般的な用語でのマーケティングの視点も織り込んでおく必要があるなら、公的な設計デザイン行為(各種の公的施設の建設や環境整備など)がその前に、すべて会計法地方自治法によって規制され、経済的判定が優先されていることに対する政治活動的な公知や、 改正提案への努力が必要だし、建築基準法の持つ限界から、「建築基本法」(仮称)制定への運動など、行政構造のパラダイム変換に関わる活動を展開しなければならないだろうし、一般市民(国民)に対しては、メディアの活用などを通して、判りやすい例でDesignの「二元性」アピールの展開、あるいは各地域における実証活動などが求められるのだ。

「美」への評価、「想像的直感」を「二元化してでも組み込め」と言うのは、「戦略的直感」でいくだけなら一般人が感じているデザインを離れてしまい、工学系、科学技術系と一緒にされ、その結果、せっかくデザインが持つ独自領域を失いかねない。科学技術分野には、あまたの俊秀がいてしのぎを削っている。彼らの頭脳に接近するだけでは、その分野で負けることを意味している。
最後に、このDesignへの理解も、現在の日本のように当面、戦争に巻き込まれていず、特に生命を脅かされることもない時代に生きて、さらに自然災害への「恭順」も心得ている国民が、輸入文化の侵蝕を何とか咀嚼して、新しい地平に立ちえたと感じられる現在の時点においてこそ、考えられることは承知しておく必要がある。

(2014/08/13-20、09/16-18)