About JONY IVE ジョナサン・アイブのこと●

【論】  4月22日末尾に追加補足




ジョナサン・アイブのこと――日本との落差


あまりにも専門にはまっていると、「もうこの世界は駄目だ」と明白に見えてきた時、ドロップ・アウトして仕事そのものを止めてしまうか、まったく新しく事業展開するかしかないような状況に陥ることがある。そして、まったく新しく何かを始めようとする時は、気持ちの上では、もうそれまでのことは一切忘れようとさえするものだ。
恥ずかしいが自分のことで、ある時期、この奈落に堕ちていた。

30近くになって、当時の准大手電機メーカーを飛び出してイタリアに行った時のことがそれだ。


その時代状況から想像してもらえると思うが、ソニーが光輝いていて、ある上司は仲間の何人かを引き連れてソニーに転職していった。
そういう関わりがあったのだから、その後のソニーの帰趨については、在伊期間を除き、他人事ではない想いで注視してきた。このような自分のいわば思いの背景で、ジョナサン・アイブのことを語ろうとしていることをご理解いただきたい。
どんな人物のことかわからない人のために一言紹介すれば、ジョナサン・アイブはスティーブ・ジョブズの右肩として、アップルを世界最高の企業に育てたインダストリアル・デザイナーである(以下IDner。別に工業デザイナー、プロダクト・デザイナー、分野の略称として「アイ・ディー」とも言う)。



ジョナサン(以下ジョニー)の経歴を、その仕事を通して詳細に知ることになったのが、今出版されている彼の名前を冠した翻訳本である(日経BP社刊)。
通読してみてすべて判る(訳者もスキップしてカタカナのままにしている技術用語の類は別にして)。この本はまさしく、IDnerの本性を言葉をもって証明してくれた。その意味でまず、このような分野に密着して取材し(本当の意味では、極度の秘密主義のアップルでの取材は困難を極めたはずだ)、細部にまで分け入って原稿を仕上げた著者の力量以上に、理解と関心、愛着のようなものに敬意を表する。ついでに、出来るだけ多くの関係者を実名で取り上げ、彼らの意見を記述して、開発事業がジョニー個人だけのものではないことにも配慮している。
しかし一歩、踏みとどまってみると、この本が書けたのはやはりストーリーの華となるスティーブ・ジョブズが居たからではないのか、という気持ちも抑えられない。
このことはジョニーについても同じで、彼の経歴を見ると、出会いは本当に危い所でスティーブと繋がっている。スティーブが居なければその後のジョニーの成果もなかったかもしれない。運命の危さと大きさを実証したような人生なのだ。


ティーブはデザインの本質を見抜き、その大切さを語ってくれたデザイン界の恩人である(特にID分野で)。また社屋や工場建設にも必ず関与し、違う部門が自由に交流談義できるゆとりの場を大きく設けるなど、建築デザインへの配慮も忘れなかった。
だがジョニーと出会ったおかげで、その思考がより深まったと考えた方がよく、相互協力による相乗効果であろう。でもジョニーの方は、彼だけではこの成果は望めなかったのがデザインの弱みである。デザインとは豆腐のようなもので、しっかりした箱が無ければいつでも崩壊する。その前に仕事の受注が無ければ何も始まらない。工芸品や台所用品レベルでなく、高度な発明商品やハイテク・オリジナル商品を自分で考え売り出す能力はむしろエンジニア思考のものである。つまり下手をするとデザイナーは要らないと思われやすいのだ。それはそのままデザイン分野内に留まらず、産業文化全般におけるこの分野の危さを現している。
考えてみると、こういう話を聞くと、主観的に見えたり、データの裏付けがないのに主張されて不思議な気持ちになり、ばかばかしいと思うような産業人や経営者が多くてもおかしくない。スティーブとジョニーが、iPadなどに見るガラスと、アルミやステインレスなどのあわせ部分の納まりや仕上げについて喧々諤々と議論をしているような情景を思い浮かべてもらえればいい。これはヒューマン・インターフェイスと言われる分野の問題だが、なんでそんなちっぽけな所に拘るのか、と思えるはずだ。それをトップのスティーブがやっているなどというのは普通の大手企業では考えられないからだ。


描かれているジョニーを見ると、もう一つのことを言わなければならない。ここで言うIDnerは、確かにジョニーに代表されるようなメンタルと表現力、実行力の持ち主のことだが、これはあくまで、アップルという先進エレクトロニクス・メーカーでの商品開発と言う立場におけるIDnerだということだ。IDner には家具をやる者もいるし、車や他の交通機関のデザイン、農具や工作機械などやたらと分野が広い。頼まれれば宇宙船の内部デザインだってあるはずだ。ジョニーもそれを知っていて、それだからこそ自社内の製造工程や、機材のビス一本にまで関心を持ち、近年ではユーザー・インターフェースにのめり込んでいる。ユーザー・インターフェースとはスマートフォンなどに見る、画面とその操作方法の人間に合った使いやすさを極める分野のことだ。
それでもやはり、このあたりの分野は車や家具とは根本的に違うところがある。ただしアップルが車を創り始めるなら、ジョニーは何年かの研鑽はあろうが、そちらの方にもついていけるだろう(ただし本人はスタイリングを嫌っている)。IDnerと言うのは高次元になれば、そのような職能なのだ。それでいて、だからこそエンジニアではない。


技術開発以外のストーリーの多くは、社内のエンジニア部門との確執や、意見の違う上司や同僚との抗争に触れられているが、持ち前の、誠実で寡黙、実行力のある性格と人物像が結局、ジョブズの隣に座らせることになったようだ。
気違いじみたスティーブの言動に耐えて、ついていった度量の大きさがそれを証明しているのだろう。また、それだけジョニーの提案や解決策はスティーブへの説得力を持っていた証拠でもあろう。スティーブは多くの発言の場で、ジョニーの作業場所で見聞きしたものを自分のアイデアであるかのように触れまわっていたようで、ジョニーは苦言を呈しているが、正面切って戦うようなことはしなかった。当然、商品化する決定権はスティーブにあったのだし、驚くようなひらめきや、市場の読みがあったからこそジョニーも尊敬出来たのだ。また市場の把握や販売のタイミング、あるいは人事対応など、経営判断による決断なども学んだに違いない。


ジョニーのこと、スティーブのことは時間を見て追記していくことにして、それにしても残念なのがソニーの凋落である。ウォークマンで大成功を収めた後、今のアップルではなく、電子商品部門で世界に輝くのはソニーであると思っていたし、あって欲しかった。
当時、ソニーのデザイン課長は盛田さんに直接話が出来たし、僕のような外部の下っ端でも大賀さん(当時デザイン部長兼務)から直接電話を受けたようなこともあった。
どこで傾いたのかは、常時、週刊誌ネタやビジネス界の話題になっているし、大体のストーリーは知っている。
要は日本の経済人、産業人は、一般には本質的な意味でのデザインの価値とその育成の難しさを理解評価できないのだ。もちろんアメリカもそうだが、ここにはスティーブという「ビジネス変人」がいて、周りもそれを受け入れ、以後、そのベーシック・コンセプトは受け継がれているのだろう。


過日、恩賜賞財団発明協会でのデザイン審査で、久しぶりにソニーのテレビを持ち上げておいたが、なかなかいいデザイナーが辞めずにまだ頑張っているようだ。回復の兆しも見えているようなので、ぜひ頑張って欲しい。
本書ではジョニーを讃えるついでに、生誕地で学びと研鑽の場でもあったイギリス本国を持ち上げているが、日本についての記述はほとんどない。もちろん、スティーブもジョニーもソニーと盛田に畏敬の念を抱いていたとの記述はあるが、その一行程度以上のことはない。むしろ、アップルの工場が韓国や中国にあるために、出向いて得た経験など、そちらの方の記述のが多いくらいだ。日本は油断のならないライバルで、一番情報が漏れないようにすべき相手であるが、それにしては何やっているんだろう?と思われてきたフシがある。


そこにこそ、僕自身が日本に見切りをつけて国を出た問題の一旦もある。
だいたいこのような個人(のIDner)を持ち上げて社会的な話題にするような、経営環境を含めた土壌がそもそも日本には無かった。ジョニーは階級社会のイギリスで大英帝国勲章第二位を叙勲され、サー・ジョニーとなった。アメリカに住んでいながら、本国の大学での講演やテレビ・インタビューなどもこなしていて、国民的人気を得ているという。
日本流に敢えて言えば、ジョニーでさえも一企業のチーフデザイナーである。それを大部な紹介本にまでし、関わる個人名を沢山挙げ、創造行為と言えども多才な個人の協力によるグループ・ワークによることを証し、こうして一企業の裏面技術史や文化創造史を超え、未来型職業の紹介にまで仕上げた。
個人的評価をもって人物と社会への価値を求めることが、どの程度の必要性を持っているのか、僕自身が深く認識しているとは言えないが、このような意味での文化面(職能文化面と言おうか)評価の国差は大きい。巨匠時代の去った建築家の世界も似たようなものだ。
ただ、そう言って切り捨てておけばいいものではない。時代が変わりつつあり、最近のトップ大学あたりではスティーブ・ジョブズが一番の人気だというデータがある。若者たちはどんな人間が好きか、求められているか、時代の風をよく感じ始めているようだ。事実、若い経営者の間や地域の事業に生きがいを見出してる活動家たちの感性にいいものを感じる場合が増えている。明るい未来の可能性はある。問題は、生産効率型大企業中心社会を越えて、利権や既存の職業概念による規制を、格差化社会にならぬよう個人能力である感性を組み込んで法的に新しく変えていける、まさしくヒューマン・インターフェイスの価値感を持つ政治家たちの登場があるか、ないか、というより至近に育てられるかであろう。










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