維持保存への絶望をを越えて

【論】
地域性、風土性にカネを掛ける「風土」がない
―ゴールデン・ウィークに考えたこと:その2―




映画にもなった超高層ビル火災などの大災害は「起ったら仕方が無い。燃え尽きるままよ」ということか。ニューヨークの世界貿易センタービルが崩落した時は、まさしく「見たか。こうなるんだよ」という了解要求の事例のようでもあった。
空想は進む。
築74年あまり(1931竣工)になるエンパイアステートビルディングは現在、どのように使われているのだろう? かって観光客用のエレベーターに乗っただけなのでオフイス事情は判らない。情報によると2011から2年にわたる総改修があったようで、窓ガラスを三層にするなど、エネルギー効率が大幅にアップしたようだ。10万5000トンのCO2削減も出来、改修投資は3年で回収出来たとか。ということは、賃貸にせよ買い取りにせよオフイス機能は果たしていて入居率も高いのだろうか。もっとも、このビルは観光名所として訪問客が落とす見学料を考えても、他の無名超高層ビルと同列に比較は出来ないかもしれないが。
赤坂プリンスホテル(1955〜2011で約50年の命脈)や鹿島建設本社の建替え事例を経て、高層ビルでも周囲への影響を極小にして壊し建替えられることがわかったが、エンパイアは補修維持に向った。壊す方もよく壊すが、残す方も給排水設備の交換なども進んだのだろうか。いかに地震がなく地盤強固なマンハッタンとは言え、コンクリートと鉄筋、鉄骨の劣化は問題ないのだろうか。
マンハッタンのビル風が起す冬は寒くて寂しくてやりきれない。富裕層はマイアミやバハマ、世界の保養地へ、若者も逃げ出していく。残るのは貧乏人と老人ばかりということはあまり報道されない。でもここが「住むための機械都市」の成果だ。
これも映画の通り、一千年後にはニューヨークの市街がほとんど水没し、エンパイアの上部だけが残るコンクリートの墓場になっているような空しい空想に取り付かれる。そのころに生きている人類はいるはずだろうから。


この社会の近代化は、科学的合理主義的判断の優位性と機を一つにしている。その客体化された発想が、現代都市を造ってきたが、いまや大いなる反省の時代に入ったと言える。行政も民間も(もちろん建築家も)地域性や風土の力,そして、そこに生ずる保全維持管理問題を軽視してきた。
それは自分の反省にも通じている。1960年代ころに大きな影響を受けた設計への感性のうちの客体性への熱望、言い換えれば、機能性、合理性、瞬時性(結果的に、コストとしての時間を竣工までで計る)への配慮で設計を進めることへの反省である。今ではそれが主目的ではなくなった。

近代から現在に至るまでの設計思想に、「独創」という概念が大きく働いてきたために、少なからぬ世界の建築家がどうしても「造る方」に夢中になってきたのは否定出来ない。
現在でも、中近東やアジアと言わず、世界中で超高層ビルの建設ラッシュが続いているが、その多くは明らかに「造る方」への意識の集中の結果だ。そのことは近代がもたらした「客体化を利用した主体の意識」による。
個人的な見解だが、今でも、いや今だからこそ、中後進国ほどビル建設が国威や豊かさの象徴と見られ易い分、造形的な新しさや高さ、規模で勝負されていると見える。それに乗っているのが「巨匠時代の名残り」(自流の言い方)を活用している世界の建築家だ。すでにそう述べてきた。「それで済むからそれでやる」と言ってもよさそうな設計内容で溢れている。
需用があって大きな収入があって名誉も貰える。保険も掛けている。何が悪い?というわけだろう。 
それは社会(依頼主)が気がついていない、時代の客体化と創造の主体化の分裂の上の共存である。だから地域性や気候風土などと、そこに住み馴染み育てられてきた空間や界隈の親和性などは簡単に消え去ってしまう。こうして、メンテがどうなのかもさっぱり判らない。本当にビル管理者に有事にどうするのか聞いてみたい。
それとも日本以外では、人心のみならず、気候風土からみてもこんなこと問題にならないのだろうか。確かに、ミラノでのアパート暮しは10年余りだったが建物で問題になったことは無かった。ということは、まさかとは思うが、僕も「あまりにも風土と縮み志向への虜になり、重箱の隅をつつくような細かすぎる日本人」に戻ってしまったのか。
時代が「再編された巨匠時代」を求めているとは思わないが、日本人の細部へのこだわりの方が、ある人たちの考える先進的であるためのネックであることもあろう。
また地域性、風土性にこういうメンテへの配慮、さらには目的性(シェアハウス、サービス付き高齢者住宅といったような)を重ねて行くと、オフイスビルが持つコンセプト頼りとは全く意味が違ってくる。そのチェック・ポイントは数百件では済まなくなりそうだ。そうなると、建材や仕様についてだけ考えてみても、安全を考える以上、使用経験のある決まった部材、同じ仕様や設計内容で繰り返し使う方が効率的となる。こうして住宅などはパターン・ノウハウをルール化してきたハウスメーカーなどに有利となりやすい。そこへ、地域を考慮した新しいことをやるのに、「頑張れ」というエールが送られるのでなく、何かやったことがいちいち苦情の対象になるのでは、個人的な知識と経験の積み上げが出来ない若者が設計から逃げ出すのも無理はない。
地域性や風土性に主体を移すと、一見、自然回帰のためにコストが掛からなくなったようにも錯覚するが逆である。このような経済客体性(コストに還元するデータや資材のストック、人材蓄積の必要性)に、しかるべき予算を見込める「風土」の醸成や政策を盛り込むことが有能な若者を育てる併設条件となるはずだ。
地域性や風土性は、設計条件の転換ではなく、既存知識への上積みなのだ。


よく考えてみよう。我々が古いもの(住宅やまち)の良さや、使い込んだもの(同前)への愛着を大切にしているということは、基本的に「まず自分の感情と情緒に生きている」ということのはずだ。ところがこの国では、個人に関するそんなものをどこも相手にしていない。つまり、保護する対象が個人の思惑や感情にあるうちは、それを守る法律もシステムもない。言い換えると地域性も風土への愛も、この延長上にあるだけならば、現在の社会構造では存在意味が認められていないということだ。
維持補修の経費、固定資産税から最近問題視されている「空き家税」、その先に来る住宅建物への経済的無評価などを考えれば、経済構造からして、そこからの収入が無く、「自分の感情と情緒に生きている」だけなら、古く美しいものや住宅、あるいは街並みは維持などは出来ないということだ。地域性、風土性にカネを掛ける(つまり、現実の「移ろいゆく心に合わせるかように廃れて当然と思われている家屋やその集合体であるまち」を乗り越えていくためには経費やその補助を当然と考える)「風土」がないと言うべきだ。
こと地域や風土への想いも込めて、自分が馴染んだ古家の保存などから考えると、このままでは恐るべき経済至上主義の仕返しが待っている。それを越えるには、やはり利益を生む仕組みを考えるしかないのか。