「イタリアン・セオリー」とは

【日記】


「イタリアン・セオリー」に何が書かれているのか          



何か書かなければいけない、という気持ちで、このブログを書き始めることもあったが、最近は、書くということがそんな生易しいことではない、という脅迫観念のようなものが出てきていて、書くことも少なからず苦痛のうちにある。
書きたいことが日記や散文のうちにあると思えるうちは良かったが、最近の思いはかなり重層化してきていて、なかなかまとまらない。このためにまずブログで書き始めてしまうのでなく、別の場で考えを整理して文章化し、ある程度まとまってからブログに転載することが増えてきた。
それにはまた別の理由があって、これまで書いてきたブログを折に触れてリビユーしてみると、底辺ではかなり繋がっているんじゃないかとか、似たことをすでに書いているなとか、イントロとしてはいいが、もっと深めて書き加える必要がありそう、とかの記事が目につき出したのだ。過去の記載にそれだけ再検証とかリタッチとかが必要と思い出すと、新しいことを始めるにはそれだけ覚悟が要ることも理解頂けると思う。


こういう思いに少々悩まされてきたのが、自分の思考の居所がある程度見えてきたことに関係しているのは確かだ。それに加えてつい最近の話だが、その自分の思いの核心部分になんと凄く近い所で論考を重ねてきたらしい研究者を発見したことも、ある意味でもっと大きい課題の突き付けになってきた。
その研究者とは、西洋美術史・思想史専攻の岡田温司京都大学大学院人間・環境学研究科教授のことである。ネットで検索してみたら、すでに僕が問題とした画家セザンヌのことも取り上げていた。
実はこの先生の名を知ったのは、すでに紹介し、ある程度の議論をさせて頂いている神田順先生が行ったセミナーのテーマ「イタリアン・セオリー」の元になっている、同名書の著者として知ったからである。「イタリアン」ということで、判った気になってのメール交信のうちに知ったわけだが、このセミナーには僕は関わっていないし、内容も知らない。名前を聞いたこともないアガンベンなどの現代イタリアの哲学者たちがどんどん出てきてパニックに陥った。


この本を取り寄せて読み始めたが、とても難しい。かつ、妙な距離感も感じ始めてしまった。
京大教授と言うからには当然ながら言葉を使って論理と感性を扱っているために、言葉に弱みやアレルギーを持つ僕にしてみれば、改めて言葉使いの難しさを教わるとともに、「で、じゃあ自分ではどう視覚表現するの?」という問題への未解決をも突きつけられているような気にもなるのだ。
幸いにも本書の章立ての中に、自分の問題でもありそうな「建築の堕天使」という一章があったので、まずそれから読み解いていこうと思う。出来れば素人にも、ということは誰にでも判るような内容にして、次のブログで取り上げたいと思う。