維持保存がもたらす問題へ

【日記】

小さい所で起きることは巨大になっても起きる。      
―ゴールデン・ウィークに考えたこと:その1―



時間が経ってしまったが、好天続きのゴールデン・ウィークだった。
よかった、晴天で。氣持ちのいい気温、初夏のような微風となっただけで幸せな気持ちになれた。ラッシュに出かけなければ、時間も一時止まったかのように、ゆっくり進む感じ。
ところで唐突だが、この時に起きた目の前の話になる。その時の記録。




こういう時期だからこそ窓やトップライト(屋根や天井部分をガラスなどにして採光力を上げたり、景観を取り入れた部分)に目が行く。新緑や戸外の明るさのせいだ。で、早速、家内から、
「天井のガラス、汚れているわよ。掃除してちょうだい」


大きなトップライトは、意欲のある設計者には常に意識の中にある「設計要素」のひとつだが、設計は以外と難しくトラブルの種にもなり易い。
巨大なものは設計していないが、住宅レベルでは使っている。しかも勾配が非情に緩い屋根などで。このためガラス抑えに使ったアルミアングルのシールの立ち上りわずか4〜5ミリだけでも水と塵芥溜りになった。透明ガラスの上だから下からはやたらと目に付く。自宅の設計例で判った。出来てみないと問題が以外と大きいことがわからない例だ。これでいろいろ教わったと思えるのが、メンテナンス(維持補修管理:以下「メンテ」)設計の難しさである。


自宅は2階の玄関部分に緩い勾配のガラスのトップライトを設け、その上に3階の渡り廊下がある。この階もトップライトになっており、いわば二棟を繋げる部分を上下の光の通過路として計画したわけだが、どうもトップライトの汚れが進むし掃除がしにくい。
簡単にガラス拭きが出来るようなメンテの仕組みにしておけば良かったのだが、普段使用するものでもないからと、判っていながら素人でも楽に作業出来るような足場を付けなかった。それで慣れた者でも清掃にちょっと手間暇掛かるのだ。防水には万全を期したつもりだが、どこかに掃除の万全まではという気持ちがあったからだ。普通には、この程度を設計の失敗とは言わない、と思いたい。
で、面倒だから「今年はいいんじゃない」と言うと、
「屋根ガラスでも汚れを簡単に掃除出来るようにしておくのが建築家でしょ?」


もちろんカネを掛けて業者に十分に清掃してもらうなら一向に構わないが、出費に厳しい個人住宅ではそうもいかない。というより、確かに努力すれば休日に自分で出来る程度のことなのだ。「重箱の隅をつつく」ような些細なことなのかも知れないが、個人住宅設計を依頼され、建てた後の住み手の苦労を考えれば当然の配慮であるべき。


こういうことから教わるものは多い。メンテ配慮の難しさや、そもそも建てる設計努力に比べて欠ける維持への配慮など。時代はむしろ保存維持に向っているのだから。
特に日本だからなのだろうか。遮光・遮熱に留まらず、自然災害の大きさを考えると、天井をガラスにすることには大きな試練がある。全面曲面ガラスの高層ビルなどはどういうことになるのか知らないが、小さな住宅に起る問題はどんなに大きな建造物にも比例したスケールで起きるはず。


普段、我々は「造る方」にほとんどの注意を集中してきた。メンテはどうでもなると考えやすい。もちろんパリのポンピドー・センターなどで設備配管を露出して設置し始めたメンテ考慮設計のことなどは知っている。もうちょっと注意深く評価して言うなら、「どうにかして、何とかなる」だろうか。つまり一般には、メンテから設計を考えるわけではないのだ。
人工建材や施行技術の発達をいいことにそう考え易いのだが、その前に意識のどこかに、「百年以上は保ってもらいたい―後はどうなるか分からない。そこまで維持出来るかどうかも個人では判断出来ない。何より自分は死んでいる―」という考えもどこかに潜んでいる。このため「永久の維持保存努力」などとは考えにくく、ますます「何とかなる」と考え易いのだ。
こんな「何とかなる」という意識で設計をしていると、前記のようなことになる。休日に起きた自宅トップライトのメンテ騒動から想いはどんどん拡散していった。
それは次の日に記す、地域性や風土への愛がどんなものかという問へ広がっていく。