地域は消滅するのか

【日記】 Are local districts of Japan extinct?


「地域は消滅するのか」
         


ここは太平洋を前にした小さな岬で、海辺は砂地の無い岩場。岸壁から直ぐに登り降りの多い深い森となる。大きな松林をすり抜けて明るい陽の光が届き、気持ちのいい潮風が顔をなでる。そこに波の音が聴えるが、鳥のさえずりさえも加わっている。
岬と言ったって一時間も歩けば、ほぼ全周してしまえそうな大きさなのである。
入り江は波静かで、そこにある小さな漁村はひなびて穏やかな佇まいが続き、ひっそりと軒の影を落している。



確か、高校生になった頃の僕は本気で考えていた… もし将来、大金持ちになれるなら、この岬を買い占めてここをこの自然のままの公園にしよう、と。
当時、ここが美しく、東京からも近いだけに、乱開発で(もちろん、こんな言葉は知りもしなかったが)見る影もなくなりそうな予感をすでに抱いていたのだ。
これほどに想い込んだのは、行ったこともない南仏のコート・ダジュールかどこかの海辺への想いが強烈だったからだろう。そこから身近なこの場所が、僕の心に代理景観地役を引き受けるようになった。今と違って少ない情報から、海辺の街と自然も区別がつかず、美意識から勝手な想像に走っていたのだ。
「絶対、似ている!」
敗戦後に育った世代には日本は魅力が無く、美しい場所はヨーロッパにあると思い込んでいたことも関係あろう。もちろん、最初の内はピサロシスレーの描いたセーヌ河畔の絵画だったりしたが、段々、小説や映画のシーンに助けられていった。
徐々に募るその勝手な想いも手伝って、何度かこの岬をさまよった。ここは子供の頃の遠足などで知る人も多いはずの、神奈川県西部にある真鶴岬のことである。


このように、なぜコート・ダジュールなどに憧れるようになったのかは複雑だ。
時代は前後するが、元をたどればコレットの「青い麦」を読んで、エスプリ溢れる青春の影を一身に感じて、この舞台はどこなんだろうと思い捜し始めたことなども接点がある。確か、カンカルとパメラの間(コレットの別荘のあるところ)とか聞いたが、実はここはノルマンディー半島(俗称)で南仏ではなかった。でも海辺のある半島だった。
また南仏は、カンヌ、ニース、モナコモンテ・カルロやサン・レモなどがある場所とは知っていたが、後からセザンヌの絵画を見ていると、サント・ヴィクトワール山がやたらと出てきて、これがあるのがこの地方だった。で、ミラノに定住を予定した時にもコート・ダジュールなら行き易いと喜んだものだ。
もっと遡ると、僕の小中高時代は小田原で育ったので、最初から海辺とそこに近接する山辺は身近な存在だった。子供時代の遊び場は海岸だった。山辺とは当然、箱根山の裾野である。
当時、自家用車を持つ家はほとんど無かったから、真鶴へはたった3駅だが東海道線で行くしかなかった。それでも高校になってだろうが一度は古い荷物自転車で行った事がある。未舗装の山沿いの道は尾根に沿って出たり入ったりしてなかなかたどり着けない。当時の海沿いの道は狭い上、カーブが多く自動車が危なくて走れなかった。母方の実家が静岡県三島市だったから、真鶴は降りなくても小学生の頃から何度も通過していた。新幹線が出来ても、東海道線で小田原から熱海を抜けて伊豆方面に行く事の多い人は、この辺の海辺の車窓風景を十分ご存知だろう。よく「東洋のニース」とか、「日本のリビエラ海岸」などと言われている景勝地である。
こうして、青い海辺と岸壁、深い森、そして漁村(岩村)は自分の心の友となっていった。中川一政など、多くの画家が魅了されたのもむしろ当然だ。が、それが町長となって行政が仕事となれば、こんな美しい話だけではとても済まなくなる…というのが、次の話である。



三木邦之君講演と「美の条例」に至った真鶴町


この真鶴町がわが国の都市計画(法)上、大きな足跡を残したことはご存知だろうか。
今をときめく「まちづくり計画」などの話題の前に、何も問題の深さは分からぬまま、三木邦之氏は地元で立候補し、真鶴町長に当選してから「わが町への想いの深さ」で、狂乱の高度成長期にあって、迫っていたホテル、リゾート・マンションなどの大開発のうねりに、結果的に釘を刺し、一方でまちづくりに「美の基準」(後述)をもたらした。この実績で都市計画問題研究者たちの評価を浴び、その後の地域開発問題解決への大きな例証となっているのである。このことは専門関係者なら多くが知っていることだが、彼が追い詰められた実務の恐るべき実態までは知らないのではないだろうか。
まさか、その三木氏が同じ高校で同級生だったとは気がつかなかった!(以下親しみを込めて敢て三木君と呼ぶ)。 
言い訳めくが、10年あまり日本に居なかった我が身でもこの頃(1990年代)には帰国していたが、会話もおかしく日本の実情に馴染めず、また主に工業デザイン界の業務に明け暮れていたからだったからだろうか。それにこの頃は高校の同級生で集まるなんて考えてもいなかった。
あれほど惚れていた真鶴町について、景観を優先して「まちづくり条例」を創り話題になっていると知ったのは、十年ほど前だろうか。法政大の五十嵐敬喜教授のセミナーか著書による。そしてその主役がこの三木邦之君と確認したのは,去る5月17日の神奈川県立小田原高校での全卒業生対象ホーム・カミング・デイ(OHCD)に合わせて行われた、我々高校11期生同窓会の講師に彼が呼ばれたからだ。ちなみに昨年は僕が講演をしている。彼は三年の時2組、僕は6組だったから、1学年8クラス、一クラス50人もいれば1年の時同じでも、よほど縁が無ければ記憶に残りにくい。会ってみれば、「ああ、君だったか」という具合だ。
今日はその関連の話をしたい。


担当幹事の佐々木洋君が丁寧にも、ホーム・ページに長文の紹介記事を載せてくれていて、一段といろいろの事が明快になった。彼の了解を得て引用もさせて貰おう。
その一つが、彼の努力で「湯河原新聞2015/5/20」(以下に引用)と「西湘タイムス2015/5/23」が取り上げてくれた三木君の講演紹介で、手短にまとめられていた。
真鶴町に一番足りないものを『平らな土地』と『飲み水』と上げた三木氏。珈琲好きの中川一政画伯(定住し個人美術館を建てた:大倉補記)が『塩気のある真鶴の水を使ったコーヒーは飲めぬ』と熱海の喫茶店にわざわざ出かけて行った逸話や、湯河原からの友情給水などの“水事情”を語り、自然が破壊され、人心が荒んだエピソードを披露した」。
ここでわかるが、自らの町で、押し寄せるホテルやマンション建設計画などに対応するのに、まず水資源、ついで対応建設用地の絶対的不足(水はホテルなどに取られれば住民に回らない。用地は斜面を切り崩せば私有地ばかりとなり、景観も壊す)からこれらを断らざるを得ないことにその戦いは始まり、それは「水の2条例」として結実した。建築基準法では建設を断る理由が見つからず、どんどん確認申請がおりていたはずだから、建設業者などからの圧力は凄いものがあったに違いない。しかも地方分権の実績がほとんどない時代だった(建築基準法都市計画法は国法。順当に行くと、景観などの地域条例は国法に勝てないと思われてきた)。
佐々木君も、自分の視線を加えた三木紹介を続ける。
「町長就任後、(中略)町への投機的不動産投資の流入の阻止に成功した時にも、『この条例は国の法律と抵触するのではないか』という懸念が根強くあったのですが、『違法かどうか判断するのは裁判所の仕事』と“不惑”の姿勢を示す事によって周囲を納得させたのだそうです。また、これとは別に、住民の参加を得て、世界に類例がないという街づくり計画のための『美の条例』を押し出したのも、『真鶴の持てる良さは大切にし続けたい』という“不惑”の一念を示したものなのだとか。講演会終了後の質疑応答でも『後継者は残したのか』という質問に対して、『後の世にも受け継がれる条例を残すことの方が、後継者を残すことより遥かに重要』と胸を張って答えていました」。
実際この言葉によって、条例制定への大変な努力とその重みがひしひしと伝わってくる。

三木君のコメントにこうある。「いま声高に『限界集落』『地域消滅』が叫ばれる中、四半世紀前バブルの圧力から町の環境破壊を守った真鶴町の経験の中にそのヒントを見出す」と。その一つに、「開発圧力に対抗するための独自の政策」として、成した次の条例を挙げている(もう一つが「平成の大合併」で、後の話題に続いている)。

* 開発を抑制するための『水の2条例』 (1991・9・17制定施行)
* 『まちづくり条例』(1993・6・15制定、1994・1・1施行)
 この条例は建設計画の規制と誘導に関して定めるばかりにとどまらず、『美の基準』という項目をもつ特色ある条例として名高い。また、さらに3年の年月をかけ、徹底した町民参加により町の将来像を描く『まちづくり計画』を制定した」
(繰返しになるが、いかに地方行政として独自の条例制定が「大冒険」であるかが、いくらか判る話を、本ブログでも別に取り上げている。本記事最後で紹介)



「地域は消滅しない」
――地域には地域の問題があり、全国一括の法施行は難しいし、地域はもっと主体性を持たねばならない――


次に、この日の講演会のテーマであった「地域は消滅するか」という大きな問題に対しての三木君自らのコメントに移る。
「『まちづくり計画』の実践で、身の丈にあった投資しかしない結果、(真鶴)町は健全財政を維持してきたが、この頃から全国的に広がる少子高齢化の波は、小規模自治体を飲み込んだ。(中略)私もまた自分の意思とは裏腹に「町村合併」「小学校統合」のケジメをつけるため四期目の立候補をせざるを得なかったのです。ご存知の通り合併は不調に終りましたが…(後略)」
ここからが核心部分だが彼はこう言う。
「(日本創世会議の発表した消滅の可能性の高い市町村から見て)、しからば地域は消滅するのか。そうではあるまいと私は思う。(中略)(日本創世会議は)任意の団体の発表として896自治体を名指しした。神奈川県でも1市8町が該当するとされた。箱根、真鶴、松田、山北の順だと言います。箱根がなくなると思いますか。(中略)数年の内に、この県西地区で小田原を中心とした自治体合併の協議が始まることに間違いはなさそうです」。


それにしても、と佐々木君は自問する。
このような地域での広域行政に常に付いて回るのが、市町村合併での地域行政担当者自身が「抵抗勢力になり得る」問題であり、また一方で「何の責任も権限も無い『日本創世会議』が、三木さんの言う“合併の肩たたき”をしたり、叱咤激励をしたりしているだけでは、市町村合併を期待しがたい」と。 そして、「当事者同士の協議に委ねているのではなくて、『日本創世会議』の背後にいる国や都道府県の然るべき行政機関が、自らの責任と権限を持って介入し促進する必要がある」と、講演から改めて思い知らされたと言う。それゆえ、「“有識者による××会議や××委員会”任せにすることがやたらと多い日本行政の陰には『行政機関による責任回避』という由々しき問題が潜んでいるのかも」と言い、「『地方分権』というと聞こえは良いのですが、その美名の後ろにどんな実態があるのか、三木さんが町政のプロとしての体験を通じて示唆してくれたように思います。安倍内閣が唱える『地方創世』という美名も然りで、それを鵜呑みにしたり受け売りしたりしてはならず、地方、ひいては我々住民にどのような権限と責任が及ぶのか見極めなくてならない」と結んでいる。



地域に生きる


これが一地方都市の高校OBの集まりの様子であり、語られていた内容だ。OHCDの中でもこの学年の組織力はトップだそうだ。ついでに言えば、東京に在住することになった同窓生で創る「小田高東京会」もあり、これも年に一度俊秀が多く集まっている。
ホーム・ページにしろ、こんな議論がまかり通っている「文化水準」をうれしく思い、自慢もしたくなり、出来るだけ公知したくて意図的にかなり引用させて貰い紹介した。他にもたくさん同級生の感想が寄せられていた。この話の最後の部分で、いくつか、断りも無く簡略化させてもらうが紹介したい。
まさしく地方の時代だ。僕が若い頃、大切に心に抱いた夢のような願望は、奇跡的にこのような形で継続されたのである。三木君、ともかくも有難う。
長くなるが、終わる前に、とても良く書けている三木君のお嬢さんが書いた「覚え書き」を添付する。一読に値する。



「美の基準」についての覚え書き
2013年9月   三木邦之さんのご令嬢  三木菓苗さん


 80年代後半、大きな大きな経済の波が、真鶴町にも押し寄せてきました。この小さな半島に、持ち上がったリゾートマンション建築計画は、全部で43棟。そのすべてが国の建築基準法都市計画法に見合ったものであり、県の指導にも従っているのだと、当然のように、財産権・建てる権利を主張してきます。
 国の法律で、真鶴町は守れない。
「きちんとした拘束力のある、この町独自の条例をつくる必要がある。」
自己水源の乏しい、真鶴半島の現実的な弱さを武器に、基準以上の大きさの建築物には、水を供給しないという「水の条例」。建蔽率容積率に加え、風致地区や、細かな基準を設けて、景観を守る「美の条例」。
 2段階の条例構想をかかげて立ち上がったのが、私の父でした。

 このように小さな町が、独自の法律を設けるというのは、並大抵のことではありません。開発業者だけでなく、国や県も圧力をかけてきます。そして、規制の厳しい条例に、住民からも様々な主張が起りました。
各所をまわり、「話し合い」に力を尽くす日々。

 当時の父との会話で、私の胸に深く刻まれているものがあります。
建蔽率50% 容積率200%という数字を見て、厳しすぎるという意見があるが、今現在、この真鶴にたつ建物の中で、この基準に反しているものなどほとんどない。自分たちはずっとこのように暮らしてきた。
もちろん土地所有権・財産権を主張することはできる。けれど、自分の権利を主張することで、隣の人の権利を侵すようなことはよそう。ただ、それだけのことなんだ。」

 ”美”という主観的なものを、どのように客観的な言葉におきかえるのか?

 「この土地に人が住み、集落を形成し始めた頃から考えると、真鶴には千年の歴史がある。その時間の重みを加えることで、その営みを言葉にかえることで、真鶴独自の“美”を客観的、かつ、普遍的なものにすることができる。」1993年に制定され、翌年に施行された「美の基準」によって、当時の開発計画の、ほぼすべてが白紙に戻されました。
私は今日も、懐かしい町並みを歩き、鬱蒼としたお林に分け入り、木々の隙間から、かがやく海を眺めています。

 その暮らし方ひとつで、その生き方ひとつで、私たちは、大きな力に打ち勝つことができる。それが「美の基準」が私に教えてくれたことです。 できあがった条例の素案をもって、説明にまわる父は、「これを真鶴の“決意”と受けとめて欲しい。」といいました。

 施行から来年で20年。
平易であたたかく、芯の強い言葉で綴られた真鶴の決意が、改めて多くの人に読み継がれ、受け継がれていくことを心から願います。




【付録】同級生の感想の一部紹介。
「『中央集権>地方分権』と、人口減・高齢化と地方の衰退について、身近な例として考えさせられた」(江木紀彦君)
「オリジナリティのある施策! 今、我が国の地方都市に欠如している事が此処にあるような気がした」(久野厚夫君)
「『地域消滅』の対策に答えはないという話になってしまったね。住民の知恵を出さねばね。利己的でない人にならねば!」(辻秀志君)
「外圧は大変だったろうがこれに抗し、町の方針を貫いたことは大変立派な見識だったと思う。私は小中が箱根湯本で、臨海学校で真鶴小学校に泊まり海水浴をしたのが楽しい思い出。(今は)箱根では、労働者たちが教育環境などの理由で小田原など町の外に住み通勤して来るのだとか。観光業を持ちながら消滅可能都市になっている状況が良く理解出来た」(植田研二君)
真鶴町の問題は日本国全体の縮図のように感じられる」(真壁徳光君)
「今日の東京の一極集中の中で一石を投じる講演であった」(高橋佳子さん)
「当時、陰ながら応援し続けていたことを思い出し、誇らしい気持ちにさせてくれた」(山田泰昌君)
「どこでも考えていかなければならない行政の係わりを考える有意義な話だった」(山本悟正君)


【補記】 上記のいわば全文としての引用は佐々木洋君の了解は得ていますが、個々人の方々の直接の了解は得ていません。問題はないと思いますが、ご了解方々、お許しくださいます様。


【付記】 より専門的な話になりますが、「いかに地方行政として独自の条例制定が『大冒険』であるか、が、いくらか判る話を当ブログでも取り上げている」とした記事を、参考までにご紹介します。(本ブログのトップにあるカレンダーの≪2015/06≫をクリックすると記録日時が表示されますから、そこから日付を検索しクリックします)

●2015/3/12 「良質な建築と美しいまちづくりのために必要なこと」


私の講演はまだブログ記事にしていないようです。
関連参考:
2013/10/23 「まちづくりで小田原市長と対談」
2007/3/3 「小田原のこと」
2007/1/25 「NPO日本デザイン協会の可能性」






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