組織と個人、そこにある認識の差

【日記】

組織が先か、個人が先か




最近は、思いついたことを書く日記ではなく、よく言いたいことの趣旨と話の流れを見極めて書こう、という気持ちが強くなっている、とはすでに述べてきた。そうなるとノート・パソコンに記録し始め、数日かけて整理してブログに移す、ということが多くなる。
それは、言うことに責任を取る覚悟と、ツイッターフェイスブックじゃないんだ(衝動的な発言に疑問)との思いからだ。


でも、そうしてまとめていると、どんどん時間が流れてしまい、現実に追いつかないことも出てくる。今度の国立競技場建設問題がその例だ。
そこで少しづつでも書いていくしかない状況もあるとして、以下に始めてみる。


ここでの言いたいことは、団体組織の立場とその団体に属している個人の立場に起きる齟齬の扱い方の問題である。
判り易く言おう。
この件の具体的な言いだしっぺは槙文彦氏であった。それは昨年の日本建築家協会(JIA)機関誌に掲載された。その後の流れから、今度の白紙撤回にまで至ったわけだが、この記事を掲載した後、一度ほどは「槇さんに聞く」というような記事を載せたと思うが、それ以後は協会としては、槇さんの発言や行動をサポートしていない。
協会の考えとしては、槇さん個人が言うことはまったく自由だが、協会には協会の立場がある、ということだ。個人の思惑と協会の建前が合わない場合、この個人を全面的にサポートするような立場は取れないということ。
専門的になるが、具体的には「設計協力の問題」になるようだ。JIAは建設会社の建築士は会員にしない。設計の独立を担保するためだが、建築家の間でもここも議論が分かれるところ。槇さんが「建設会社(の設計部)と協力して設計してもいいじゃないか」と言えば、JIAの立場は無くなる。(確認して言っているのではない)

逆に、大手の設計事務所間ですでに協力して進めている(らしい)競技場の具体的設計への協力は(どこから依頼されているかはしらないが)、JIAとして大いに認めるという、ちょっと変な構図になっている。正確には「複雑な構図」と言うべきなのだろうが、「変な」と言ったのは、設計事務所なら「大手だけが引き受けた」ことでも認めるという、この団体内にも階層差別の容認があったりするからである。
さらにデザイン提案者のザハ・ハディッドが希望すれば、白紙になったとしても、設計協力者(あるいは再コンペへの応募者)に残れるとの立場をとっている。なぜならザハも建前上、「個人の建築家」であり、その限りJIAはサポートする責任があるから、という論理のようだ。


これらは安倍総理の「白紙撤回」発言のほんのしばらく前に出されたという、JIA会長のプレス・リリーフの文面によっているが、こういう発言で専門家としての建築家の立場が保てたと判断したようだ。
「個人(名)を軸とする設計事務所」にこれほどこだわるのは一般の人には理解しがたい所かもしれないが、パナソニックとなるまでの松下電器が、松下幸之助の名前にちなんでいたように、個人の決定的な影響力があり、その個人が望む場合は、個人名の組織名となる場合があることを考慮すればいい。建築が文化や芸術に関わりがあれば、その必然性は高くなると言えるだろう。

ならば戻って、なぜここでこの機会に、設計協力の専門家間の問題は内部で調整するとしてでも、個人の名前が出ていて、しかも個人事務所になっている槇文彦氏を大きくサポートすることで、JIAの「個人名を大切にする(建築家の)組織」の公知化に利用しないのだろうか。この位の単純な図式にしないと、一般人には理解できないだろう。
ここで黙っていることによって、JIAはその存在すらも見失われるのではないか、という気にならざるを得ない。

(あれば後述追記)