国立競技場が教えること●

昨日に続き、この問題の余韻が続いている。
ひとまず印象を書くが、時間があれば週刊誌が報じた裏面史で補足をしたいくらいだ。


日本人はやさしいということになっている。
それは本当だが、特段のことがない人たちの間のこと、それと「竿をさせば流される」だったか、世間体を取り繕うことによってだ。
人間の本当に嫌な面を具体的に見せつけられた経験があると、なるほどそうか、と思うことがある。
そういう経験が、こういう場合、こうするんだな、という経験からの応用予測に繋がっていく。


今度の国立競技場建設問題への個人的関心は、単に自分の職業に近かったからと言うわけでもない。知れば知るほど利権者の保身とずるがしこさ、やさしい国民、待っている国民を感じさせた具体的事例だったからだ。
たかが競技場と言うなかれ。権力を持つ側が勝手な振舞いをして隠蔽し、ばれても謝らない。国民はそれを黙って認めている。
しかし唯一の成果は国民の人気が無くなると、おべっかを使うトップがいるということだ。でも、安倍でなかったら、支持率を気にしない宰相だったら、あるいは安保法案国会とセットでなかったら、森を説得できなかったら(安倍は森に頭を下げて頼んだのだ)などいろいろの条件を考えると、安心してもいられない。
ゼネコン各社は自社内に箝口令を敷いて、この時期、一切余計なことを言わないようにさせているという。ザハがどういう日本の組織と組んで、そこが見積りを出しているのか不明だが、そこがアップを図ったのは明らか。それでも表に出てこない。


これだけ経過を知れば、1000億とかのカネが動くとき、いかに人間が変節するか、その時、どうすればいいのか、今回の事件は終わったわけではなく、むしろ始まりだが、今後の我々の対応に勉強と覚悟の一石を投じたと言える。
戦争でなく、カネでよかったと言って済むものではない。