黙っている核になるクリエイターたち

偏向するメディアとそれに迎合するアーティスト・デザイナー・建築家など。あるいはその逆。



「黙っている核になる人々」という言い方でいいと思うが、現在真面目に活動しているアーティスト・デザイナー・建築家など(以下、最近の言い方に合わせて取りあえずクリエイターとして総括する。外来語ゆえ納得のゆく言葉とは言い難いが)は、バカ真面目に黙りすぎているのではないか?
昨夜、テレビでゴーギャンを扱っていたが(*)、出席者に中野京子日比野克彦、○○○○(若手女優)、司会に見たことのあるタレントが出ていたが、組み合わせに何となく嫌悪感を感じた。
中野は問題なくパスだが、日比野の言っていることはともかくも、なぜ似合いもしない帽子をかぶるのか。浅葉克己が被りだして嫌な印象を持ち始めたが、そのマネか。そしてこのような輩をメディアは出したがる。それ以上に画面に芸大教授と出て、更にびっくり。最近の芸大もちょっと変だが、いつなったのか。これではクリエイターがどんどん芸能人化して扱われ易くなる。
誤解はされたくない。実はそんなことはどうでもいいと思っている面もある。でもそのことが「黙っていて核を創っている人々」の一人となり、内実より変に自己主張の強い奴ばかりが表に出てくる現代社会を作っているのではないかと思うのだ。
クリエイターとして総括したが、当然、建築設計界にもこの種の人間はいる。
クリエイターにも潜むオポチュニズムはメディアへの接近を意図した途端に現実のものとなる。科学的に証明できないものを相手にしている者だったり、運よく日の目を見るキャリア路を歩けた者でなければ、メディアはある意味で神様だ。そこでメディア受けしそうなことなら何でもやろうとする。もちろん、そんなに簡単に見え見えにやるのではない。背景から、外側から、人脈から、カネからもうまくやるのである。帽子を被るのをいいとか悪いとか言っているのは、だから幼稚である。でもそれ故に落としどころなのだ。

*「ザ・プロファイラー」BS3