驚嘆の小栗康平

【日記】     ご参考 ●藤田嗣治高田博厚についてのか過去の記載:  2009/11/28「藤田嗣治高田博厚のこと」



よくまあ、こんな映画が創れたものだ。


藤田嗣治の展覧会を駆け込み見てから、どうしても気になっていたので小栗康平の映画「FOUJITA」を見てきた。
率直、驚嘆である。藤田にではない。小栗に、だ。
言葉ではどうしても表せないものを小栗は知っている。
その視覚性の意味でも凄いが、藤田の内面を読み込んだ映像としても凄い。
人間の内面の複雑な部分は「心象あるいは心情」であるので、視覚化は本来出来ないはずのものだ。しかし生活体験の多くは視聴覚から入ってくるものだから、心象や心情を映像に「再発行する」ことは不可能だとも言えない。映画を始め深い映像、画像の多くは、ここへの無謀にも見える挑戦とも言える。
もちろん小栗への驚きは、その背景にある映画製作への膨大な人的、資金的、時間的問題を処理していることを意識しての話でもある。
残念ながら僕は日本映画に弱く、小栗康平も今度初めて知ったし、実はこれまでに6作しか作っていないということも知らなかった。だから他の5作品も見ていない。


まず時代考証的な視点を含めて、まったくその時代に居るような映像を創りだしている。
暗いパリ風景は、異邦人が生活するなら実感するはずの孤独感をいやが上にも現している。電燈のほとんどない街中は、あの第一次大戦後の狂乱の夜のパリ、というイメージとはほど遠い。裏道に入れば真っ暗だし、家の中も暗くて狭く陰気だ。若い女の肌のぬくもりだけが生存の証になっているような始末だろう。しかし、これが現実だったに違いない。藤田のように野心と作戦に長けていなければ、必ずや孤独に飲まれて異国の屑となるに十分な風景だ。
ストーリーは二分されていて、後半は日本での生活だが、疎開した田舎の風景描写が驚くほど意味深な日本画的風景が多い。逆光に映える棚田や、霧に霞む山の峰々。映像の各部はほとんど秀逸な絵画的風景になっている。
その分、藤田の置かれた「逆々境」とでも言うべき心理が読み取れてくる。なぜあんなに夢中になって愛国絵画と称される戦争画を描いたのか。展覧会でみても思わずうめき声が出そうになるが、サイズも大きく、まったく夢中で描いたのは明らかだ。小栗はその熱意をかき消すように、日本の風景の中にさまよいこんでいく藤田を描いている。実は藤田は、敗戦に向かう日本に己も見失いかけていたと読める映像だ。それをさせるのが、キツネの登場や巨大ケヤキだ。


これは多分、小栗の藤田への深い共感、あるいは思慮が無ければ現せない映像だ。それはわざわざ高村光太郎の詩「雨に濡れたカテドラル」を、藤田を訪ねた日本のジャーナリストらしい男に読み上げさせるシーンを見ても判る。
日本と西洋。しかもパリについては今から100年も前の話である。これを現実感もって見せるには、深い読み込みが必要だ。
絵画表現と言う枠に追い詰められた藤田の抱いた直感と野心の、持って行きどころが怖い。1913年(大正2年)、タイタニックが沈没した翌年、27才の渡仏とは言え、これは他人事ではない。
小栗にとっても、実はこれを見ている僕にとってもだが、日本人のヨーロッパにおける位置というのが、只ならぬものを持っていることを実感させるからこそ、藤田に託した問題意識となって現れるのだ。この問題意識のない人には、単なる冗漫な映像の遊びにしか見えないかもしれない。
(更に思いが募れば、後から継続記述)