エンブレム問題の帰結

オリンピック・エンブレムの最終候補4案が公開されて


恩賜賞財団発明協会の専門家審査委員会で、電気分野専門の名誉教授が僕に語り掛けてきた。
「どうですか、大倉先生。今度のエンブレム案が発表されましたが。私は何か、あまりいいような気がしないんですがね。ひいて言えば、紺一色のマークが独創的でいいと思ったのですが…」


そうか、やはりこんな分野の人たちでも、このような印象を持っているのか。
僕は愕然として慌てて答えた。
「先生の意見は適切ですよ。こんなことになると思っていました。どれも客観性に媚びたような印象でインパクトがないし、面白くもありませんよね。私も、自分ではマーク類のデザインはプロと自認していますから応募しようと思ったし、仲間からチャンスじゃないかとも言われたのですが、どうも出す気になれなかったのですが、今、なぜか判ったような気がします。コピー問題が出なければでしょうが、最初の方がずっといいですよ」


さてここからは、どういう背景が気になって応募する気になれなかったのか。その状況説明は去年の8月5日の本ブログ「オリンピック・エンブレム騒動」を通読頂ければ、ある程度の納得を得られると思うが、そのように、創作心理の説明は簡単ではない (但し去年にこの記事を書いた時点は、佐野研二郎氏の他のグラフィック分野でのコピー問題、その後、降板に至った前の段階である)。
簡単な話、応募したい気持ちをくすぐられるのは、周辺条件 (何をデザインするのか、そこにこだわりが生ずる自分の創造環境、応募条件など) が教える (しつこいが、予感させると言ってもいい) 美や雰囲気への直感であり、それが判ると感じられる審査員が揃っていると思える場合だけである。コピーであるかどうか、などは考えない。それらが面倒臭そうと思えれば、もうやる気が萎える。
今回の選定案はいかにも、問題が無いものを仮選びしましたという顔をしている。審査員団のおびえがそのま出たような表情だ。
断る必要はないとは思うが、「応募もしないで、状況が揃い自分が出せば選ばれたかような口をきくな」 という意見以前の問題である。条件に満足して応募しても、結果的に相手にされな場合だって山ほどある。僕自身が「おびえた」ということを知ってもらいたいのだ。それに、ここに選ばれた4案の作者をけなすものではない。皆さんよくやっているし、なるほどという努力の成果は読み取れる。


ちょうど4,5日前の朝日新聞「文化・文芸」欄にも、似たような記事が取り上げられた。
「デザイン界にもどかしさ」というタイトルで、「『力が弱い』『当たり障りがない』…、候補作への評価いま一つ」 という小見出しの記事だった。
参考までに、記事の取材に答えた人の意見のうち、同意できるものを省略して引用すると、
「多様性や調和を意識してか、B,C,D案のように多くの色を使ったり、4案とも形が複雑すぎたりしたためにマークとしての力が弱まった」 「(選考基準がわからないとした上で) 東京五輪のために考えたというより、既存のイメージの中から当たり障りのない図像を選出した感が否めない」(以上、アートディレクター:佐藤直樹氏)。「選考方法は冒険的だったが、そこから出てきたのはどれも似たような保守的なデザイン。これでは幅広いジャンルの人々を集めて決めた意味が無かったのではないか」(美術評論家:楢木野衣氏。楢木は漢字が間違いかも)
もう一度、最初の案に戻そうか。


【参考】過去の本ブログでの関連発言  2015/08/05:「オリンピック・エンブレム騒動」