カルロス・ゴーン氏との出会い

グローバルに向かう言語


今月から日経新聞の「私の履歴書」欄で、日産自動車社長のカルロス・ゴーン氏の履歴紹介が始まっているが、生まれも育ちも、何度も地球を半周するようなダイナミックな移住で改めて驚かされる。
生まれはレバノン(後から要確認)で、特に幼少期を過ごしたのがブラジルの奥地も奥地、アマゾン河の支流端、ボリビアと接するような地(ロンド―ニャ地方、ポルトベーリョ)だったこと。 子供時代に悪い水を飲んで命に掛かるような大病をし、故郷のベイルート(要確認)に戻ったり、結婚してまたベイルートに戻ったり、読んでいる方が覚えられないくらい。 そして大学時代はフランスで過ごしたなど、日本人の地理感覚からするととんでもない「国際感覚」の持ち主であることが分かった。
これでは当時、「これからの日本のオリジナル・デザインとは何か」、などと考えていた頭脳とはほとんど整合性が取れないのは当たり前だ。


当時とは、2003年(平成15)か4年(正確な年月日は後から調べて記載)に、ゴーン氏をお招きしてセミナーを開催したことがあり、400人位集まったのだ。(*)  さすがにすごい集客力。 各企業の上層部や、声を掛けても来てくれた事の無い経産省の幹部までが出席していた。
彼に認められていた中村史郎さんなど、日産自動車のデザイン部の協力があったからだが、その時の印象がどうも明確でない。 というのもゴーン氏は早口の英語でまくし立てるように喋り、どうも通訳が追い付かなかったからのように思う。
要点としては、国際化の時代であり各国の事情に合わせたデザイン戦略を立てるべきだ、という趣旨だったと思うが、こちらも、まさかゴーン氏が講演に協力してくれるとは思っていなかった節もあり、少なからず慌てていたこともあった。 経歴や考え方の要点を押さえておかなかったのだ。 話して頂くだけで有難く、「何を話しますか?」 などと前もって聞くような状態ではなかったこともある。
というのもゴーン氏は当時から分刻みで忙しく、予定に組み込んで貰えてことだけでもありがたいこと、と言われていたからだ。



彼は大学で研究中にミシュラン(タイヤ・メーカー)に誘われ就職し、思いがあった育ちのブラジルに戻るが、そこでの成果を買われて、今度はアメリカ支社行を頼まれる。
アメリカ(サウスカロライナ州グリーンビル)での経営に対する落差体験はいい勉強になったようだ。
「短期な利益を重視する米国流の経営と欧州の同族企業的な長期経営はどこかで折り合う必要があった。米国は新しい時代を模索する場の最前線だった。文化の融合とはつまり、互いを尊重し合うことである」(1月8日記事)


日本人で、ここまで世界を渡り歩いてきた経営者はさすがにほとんどいないのではないか。
グローバリゼーションが問題になっている時にゴーン氏自身がグローバル体質だから、 何が問題なのかわからない、 と言うかもしれない。 レバノン語(要確認)、フランス語、英語を自由に話せるようだが、日本語はどうなのだろう。 日本語は国際情報交流に必要ないと思っていれば、今でも話せないかもしれない。
日本語で考え、日本語でしか発言出来ない日本人は、置いてきぼりにされつつある。
また当時(今でもそうだろうが) ゴーン氏以外に、 デザイナーの要請に出てきてくれた日本人トップ経営者がいただろうか。
講演が終わって私と軽く握手した後、ゴーン氏は会場を出て行った。 通路まで見送ったら、秘書らしい若い日本人女性が4人ほど待ち受けていて、英語で次の予定のことについて資料を見せ立ち話をし始めた。 一人が、私に向かって 「次の予定の時間が無いのですよ」 と言い、次には皆が駆け出した。
(*) 社団法人日本インダストリアルデザイナー協会理事長時代の企画イベント







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