平成の終りに

「不安な個人、立ちすくむ国家」で個人に出来ること



歴史を大きく見れば元号単位での見方も、ある認識の在り方を教えてくれる。
平成はまだ終わっていないし、不謹慎な言い方かもしれないが、「政府は今秋にも天皇退位と改元の時期を決めるという」(朝日新聞本日記事)ことからすれば、改元はすでに視野の中にある。


平成とは何だったのか。自分なりに思い至ることが山ほどある。
これも同新聞調査によると、「明るいが不安も多い」が多く、「経済格差による貧困の拡大」「少子高齢化の不安」「インターネット社会で個人情報の漏洩の不安」が3/4を越えたという。
ここまでは誰でも感じていると言えよう。
さらに、「現役世代に極端に冷たい社会」「若者に十分な活躍の場を与えられているのか」という問いを通して、経済産業省の20代、30代の若手官僚30人が、旧態から抜けきれない非正規雇用、「シルバー民主主義」などの現実を背景に、「不安な個人、立ちすくむ国家」と題する65ページの文書を作った、と聞くと、「お!判ってる奴もいるんだ!」と(偉そうな目線だが)、心ならずも嬉しくなった。



大きく見れば平成の大問題は、「昭和の標準モデルを前提にした制度と価値観が、変革の妨げになっている」ということで言いくるめられる。そこには、我々昭和世代がもたらしているものへの「申し訳ない気持ち」とも繋がってくるものがある。
「今の日本は、若者を踏み台に上の世代が逃げ切ろうとしているようで、以前から忸怩たるものがあった」(愛知県新城市々長穂積亮次氏)という言葉が実感を持って伝わってきて、そこに自分もシルバー世代であることの心情のすべてが語られているとさえ言いたい(記事は、立ち上がった若者たちを受け入れた、「消滅可能都市」にされたこの市の動きを伝えている)。


自分が思い、変えたいと思うものは、確かに昭和に出来上がった価値観のルール変更なのだが、とは言え、これは政治の世界であって文化の次元ではない。
政治能力があれば、とっくに政治家になっていただろう。絵ばかり描いていた洟垂れ小僧が50年掛けて気が付いたって何になるのだ。平成が抱く問題の本質は、どうやっても視覚表現で説明し、解決できるようなことではない。そこに自己能力からの説得力の限界を感じてしまう。


これからも変革への提案の視点から、ごちょごちょ何か言っていくだろう。しかし社会での活動に埋没して生きるよりは、視覚的な自己表現においてこそ自己実現が出来ると承知しているのであれば、「タブロー」(視覚的に表現された実体、人は短絡に「作品」と呼ぶかもしれないが)を制作していくことに本腰を入れ替えなければならない。それが密室、あるいは限定された空間での効果しかないとしても、何とかして「平成を超える」感性の表現であることを祈って。






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