やはり「形」なのか

モノ、あるいは空間的な成果に自己実現を求める心情への理解


朝間だけ、うとうとしながらも、考えていたのは自分のデザインしたもの……今朝は家具のこと。それも、かなりモデル費用を掛けて制作して貰った三人掛けソファのこと(一人用も加えている)。
縫いぐるみ的なソファだけに、正確な形状寸法は設定しがたく、概略寸法図とスケッチで制作を依頼したが、出来上がってみると、かなりイメージと違った。
ここからがデザイン・チェックなのだが、すでにウレタン・フォームや生地のカットなどはあたかも完成品のようにぴっちりと制作されていて、「完成品をお届けします」と言わんばかりの出上り。もったいない。
そこですぐに気が付いた。
しまった。
どこをどう直すかについては、全部裸にしてウレタンを削るようなところから始めなければならない。するとどんどん追加作業費が加算されそうだったのだ。モノが大きいだけに制作費も高かった。自分で縫製、詰め物作業をやるなら別だが、時間も作業場所もその余裕は無かった。


そこでこのソファは、事務所の隅で実用に供することで日が過ぎ、事務所に置き場所が無くなると地下倉庫行きとなり、そこを息子たちがバンドの練習室にと使い始め、ある日、楽器が増えたので置き場所が無くなったところに友達が、自宅で使うから貸してくれ(もちろんタダで)というから、「いい?父さん」となった。
こうして息子の友達の家に旅立ち、こちらもそのような事情から「返してくれ」という状況にもなく、今もそのままになっている(はずだ)。


気づいてみると、直そうと思っただけに写真データも取っていなかった……。
「8 1/2」はアントニオーニ監督作品だったっけ。いや、フェデリコ・フェリーニだった(後補正)。確かこの映画の中で、「下らないものをいくら作ったって意味がない。そんなことに夢中になるのは止めろ」 と諭されるシーンがあったが、そんな気持ちに近かった。


でも、今朝の気持ちはそうではなかった。「申し訳ない、もっと手をかけてあげる予定が失念した」という思いになっていた。それでいて起き抜けには、やはり打算が働き、「やはり自分のデザインした仕事に揚げるのはよそう」となった。それはデザインとして魅力がないからでなく、これ以上、この家具に命を懸ける心の余裕がなくなったからだ。


話は飛ぶが、今夜、さる中華料理店で見覚えのある人がいた。やはり気なるので失礼ながら帰りに伺ってみると、やはり写真家の杉本博司さんだった。直接面識はなかったが、最近、真鶴近辺(神奈川県江の浦)に豪壮なアトリエ・100mの廊下状画廊・ガラス床の舞台などのセットを建てて話題にもなっており、小田原市との縁から事情は聞き及んでいたので、自分では挨拶しておきたかったのだ。


関心が持たれるのは、写真家の杉本さんが「建築空間」に大投資をしたこと。これは僕なりの言い方だが、つまり自分を賭けたということ。写真でなく建物に、だ。そういえば画家の荒川修作も(多分)最後に「天地何とか」という変な住めない共同住宅のようなものを創った。
古今、権力者が自分の思いを後世に伝えるためにも、いろいろの建造物を生み出してきたことも含めて、モノを生み出す人には、空間的な「形」として残すことが究極の願いになっている場合が少なくない。


ソファもいいが、僕も出来るならモノとしての「空間」を造りたい。ついの住処としての想いもある。空間的な成果に自己実現を求める心情と言おうか。それが「形」なのか。
かって一緒にビルバオグッゲンハイム美術館を見た故近江栄先生が、建物のある川べりを歩きながら「やはり形だ!」と呻いたことが忘れられない。モノとしての空間も、機能の空間も、更には住みやすさだけを求めた空間も、結局「形」だということか。
そう見た時に改めて、歴史を貫く意識が明確になるということだろうか。



[付記]
なお、これで思い出して付記しておきたいのが、保存への意欲より、「空間」を創ることへの意欲を優先させる覚悟が付いたので、小田原で所有している古民家(旧自宅:現在居住者あり)を、残念だが売ることにした。
関心ある方、または関心ある方に紹介できそうな方は、あまりにも現実的で恐縮ですが、(株)湘南リビング・センターへ問い合わせ、あるいは検索ください。小田原市南町4(丁目) (小田原駅=から徒歩15分ほど、バス10分ほどの意味)2800万とある物件です。海と山と緑を背景に新幹線で都心まで45分、市内ではトップクラスの住宅地です。特に古民家を改修維持してくれる人がいたら願ってもない。






・305497 23:00