「[アーツ]コア運動」への小さな発進
見慣れた世界から想像力を展開する――ちょっと気難しい異次元の世界へのいざない――
判りにくい話を腑に落ちる語りとするには文才が欠けているが、少しでも納得してくれる人がいて欲しい。
――少しづつ、後日追記・修正されています――
すでに一読されていて、言っている意味が不明だった部分や異論があった方は、もう一度そこを見直して頂ければ、修正されているかもしれません。
一般人、と言ったら反発を招くかもしれないが、家内の見方なども時にかなりいいところを突いている場合があると思った。
今夜、見慣れた印象派前後の画家を取り上げて繋げていく番組があり(テレビ神奈川らしい)、クリムトも出ていたが、それを見た家内が 「クリムトの画境の深さはミュシャも敵わない」 と言ったのが面白かった。
ミュシャは最近、東京でも大展覧会があったので家内も見ているわけだが、パリでの名声を捨て故郷に戻り、巨大な叙事詩的作品を創った。
これを評価するよりも、クリムトが美術(というよりも自分の環境)を取り巻く保守体制に反対してウイーン分離派(後にオーストリア芸術家連盟)を仲間と創って活動した方のが評価できるという。そこにはミュシャの叙事詩的な絵画より、クリムトの絵の方が時代背景を含めても訴えるものが大きいという感想ベースがある。それを「美」とすれば、だろう。
ミュシャやクリムトの時代も激動していたが、少なくと美術への想いを支える社会基盤はあったと思う。二次元のキャンバスの上で表現することへの根本的な疑問もまだ無かっただろう。絵を売って食っていけるという思いがあるからこそ、社会的な絵画グループも作るわけだ。
アートに関心のある一般人(家内もそこに含めてしまうわけだが) の芸術作品への価値評価(そこからデザインも建築も捉えているようだ)を見ていると、このレベルで話をしないと現実感がない、ということが強く感じられるこの頃だ。個人的には、ミュシャもクリムトも比較して論じるようなことはできないと十分思っているし、創作の環境や個人の歴史に繋がる思いは単純なものではない。それでもミーハー的な取り上げ方でも、論じたいことへの近似的な類推が可能なレベルに落として紹介していくことは必要な時代のように感じられる。
今はある意味で価値変動が根本的なところに来ている。
どの若手アーティストの作品を見てもよくやっているとは思うが、ミュシャのやった大仕事が限界を示すように、クリムトの絵が発散する美しさや深さがない、ということでは家内の発言は案外、一つの意見としては聞くべきものがある、と思ったのだ。
つまり我々が見ている「美」とは、条件化された限界の中で表現が可能だった過去であり、現代にその「美」を維持する装置や仕掛けはない。延々と続く「自然の美」を別にしてということではあろうが、それでも我々の脳裏に収められた「美」の基準がすでに出来上がっている(あるいはそれが偏愛の極致かも)ということには変わりがないということだ。そういう意味では一般人の意見も無視できない。
その現代アート全体の姿が、何をやっても新しがりレベルを越えるのが難しく、感性的な感興や深みがないということになり、「アートが解体した」ということに繋がる。今なら、クリムトでも追いつくことが出来ないはずの現実を突きつけている。
比較の意味性は不確かだが、あえて言えば、同じようなことが建築や空間造形の「美」にも言える――言い方は難しいが、そういう得体の知れないものが実在するので。
「美」と言っても、それをクリムトの話と比較するというなら、表現対象を平面から空間に置き換え、多面的な環境条件は別扱いとし、時代と条件下での表現可能性をもっと現代に近づけることから考えなければならないが。
前川、丹下辺りを頂点として、それ以後の現代建築の設計実現は大きな限界を迎えた(特に日本では)。
描くという行為と対象が「キャンバスと社会から離れた」ように、設計で表現しようとする行為と対照が「個人と、そこから提案する社会と離れてしまった」のだ。少なからぬ建築家はまだ今でもこのことに深い自覚はないだろう(ある種の建築家はむしろそちらに近づきたい、つまり過去の栄光へのあこがれとして感じているくらいだろうから。あるいは反対に、多くの建築家は全体合意=合理性との判断から、建築の芸術性=「美」と個性を問題とする意識がないのでは、ということで)。
だから社会もメディアも、造形空間が持つ現実の深みを、もっともっと気が付いていないのはむしろ当然であろう。
僕はこの現実を乗り越えたい。
どうするかと言えば、建築設計も新しい概念の「アーツ」として社会内での表現性の限界を示し、それを越えない(あるいは越える必要はないとする)創作者としての位置づけを社会に示していくことだ。これは建築を技術や性能、法規やコストで優先し、それ以上を考えない同業者とは離れていくことも意味しているだろう。
ただし、はっきり言っておこう。創作者と言っても技術・性能・法規・コスト・顧客希望を考えないのではない。経験の内にこれらを調整して高みに持ち上げ、その上で、新しさ、美、感動を探すということだ。
そうなると、キャンバスからは追い出されたアーティストとも、意外と近いということが考えられる。その場合は、アーティストの方のメンタリティが論理的・合理的であるほど近いということが前提である。そこには現代次元での「美」も担保される下地が用意されると考える。
実はこの考えを翻訳したのが、最近出版した「クリエイティブ[アーツ]コア」である。
そこからするとクリムトが行ったように、論理(これを論理と言えばだが)に合わせて活動する運動は、「[アーツ]コア運動」ということになるのだろう。内から発するこの思いを、小さくても現実化するように進めたい。
それは「AI時代の創造者」としての道に繋がっていくはずだ。
・09/21 01:00 6180