イタリアについて書けるのでは?

今になると何となく実感できるが、30近くなって、あるいは、それ以後はどの年齢でもと言えそうだが、何か仕事をやっているとその判断の背景には、幼少の頃の性癖や学び、あるいは思いが結果的に大きく影響していることが感じられる。

内気で自分を表に出すことが弱かった幼少時代を想えば、とても人の上に立って指導するなどという意識が無かったのは事実だ。ただ夢中で絵を描いていた。それだけで満足だったことを想えば、政治家や経済人(人を動かして金持ちに)になろうということ自体が視野の外である。

今、社会構造や産業構造の一大転換期にあり、デザイナーとして社会や経済に無関心ではいられなかったこの人生を振り返ると、政治や経済にまで意見を持つようになっても不思議ではないが、いざそれを元に行動を興すとなると、身の内に「待ってました」という受け皿がないことを感じてしまう。

となるとやはり、内に籠って絵でも描いている方が説得力があるのではないか、と思えてきてしまう。

そんな今、本屋で偶然見つけた「誤読のイタリア」(ディエゴ・マルティーナ著、光文社新書)をぱらぱら読んでいたら、それを見つけた家内が、「あなたでもイタリアについて書けるんじゃないの?あれだけ居たんだから!」と。

そういえばイタリアをテーマに一般書は書いていない。

マルティーナの書を見て、彼我の言葉への認識の差、時間意識の差などが出てきて、「ふむふむ、これは関心の中心にある今の自分の日本人への認識問題についても何か言えそうだ」という気がしてきた。

言葉や生活に関わる問題は、生まれ育った環境に戻り、国民性や個人の資質について何か語るものがあってよいはずだ。イタリア人と日本人ついて、あまり社会活動のことを考えないで気楽な読み物が書けるのではないか、と思い始めている。