「連帯」して「外力」にになるのか

とても無理だろうけれど、気になってしょうがないことがこれだ。   ●部:21日追記




新著の紹介をフェイスブックでしているが、ここでお友達になった(らしい)人達はどういう人達なんだろう。
今さら何を言うのか。
人を疑っているのではない。 どうも、集まっているのは同業的な「人種」ばかりではないのか、という気持ちがそう言わせているのだ。
同業者の間で話していることはとても楽しい。 主題も関心事も、あっという間につながる。 もっとも、「いいね!」 なんて気持ちが悪くてとても言えないが (投稿を批判しているのでなく、むしろ、見ていて感心する画像も少なくない。言葉がいやなのだ)。 このためにたいていの場合は「覗く」だけで、お友達になった人達に失礼している。
ただ、今度書いた本は、近隣同業者に読んでもらうのは、もちろんものすごく有難いし、事実、そうしなければ何も始まらないが、著者としての、僕の意図も読者開拓への意識も、むしろそこからもっと「外の世界」(経営者、産業人、メディア人種など、国を動かしている人たちのいる世界。そうなると官僚、政治家もだが)に向かっている。
つまり、 ある言葉で言えば、「連帯」して「外」に向かってアピールしなければ、井の中の蛙で終わってしまうと思っているからだ。


でも、ちょっと使ってみた「連帯」とは最近、聞きなれない言葉だ。
この言葉を意識させられたのは、数日前の新聞記事による。


その記事とは松本哉という著者が運動を起して著した 「貧乏人の逆襲!―タダで生きる方法」 という本で導かれた 「マヌケたちの陽気な連帯」(柄谷行人氏の言葉)のことである。
この書評を書いた柄谷行人という名前は昔から知っていたが、恥ずかしながら著書に接したことはなかった。しかし今度の自著を通して「同業者を越えてアピール」という課題が身につまされてくると、妙に気になりだしたのである。
柄谷行人氏が書評で取り上げたのは、この松本哉の新著「世界マヌケ反乱の手引書―ふざけた場所の作り方―」(筑摩書房 1404円)である。以下に柄谷氏の言い分の一部を転載しよう。


「・・・彼(注:松本哉)がいう「貧乏人」とは、1990年以後、新自由主義の下で貧窮化した人たちだといってよい。 この状況に対して、二つの態度がある。 一つは、中産階級の基準に固執する「賢い」生き方である。 もう一つは、それを放棄した「マヌケ」な生き方だ。
大概の人は前者を選ぶが、それは困難であって、努力しても実際はますます貧窮化する。にもかかわらず、他人と交わり、助け合うことはしない。 そして結局、国家に頼り、排外的になる。 一方、「マヌケ」たちは寄り集まり、国家にも企業にも依存しないで暮らせるように工夫する。・・・」(朝日新聞「読書」欄:「階級格差に抗する陽気な連帯」2016/9/18朝刊)


ん、ん、ん、! 「国家に頼り」まではいいが、「排外的になる」のだろうか。「それは排他的なナショナリズムをもたらす」と柄谷氏は言うが、ちょっと日本については教条的すぎないか? それとも僕の突き詰めが甘いから、そんなことを言うのか。 ともかくも、前段の状況説明は全くその通りで、 このことはトマ・ピケティから教わったと自著にも書いた。 それにしても、「クリエイティブ〔アーツ〕コア」(自著の核でありタイトル)にいる者たちのやるべきことは、やはり「連帯」、それも「陽気な連帯」なのだろうか。 この辺が気になって仕方のないところなのだ。
●自分で何かやれるとしても、こんなこと(現状の体制に向かって小著で物申す)でしかない。 政治家でも、よほどの才能と運と財力に恵まれなければ、社会の変革など出来るわけがない。 大体、日本人は「連帯」より、「上からの指示」や「外圧」でしか変われないのではないか? 
参加型「アート」で社会が変えられるのか。 ネットの友と語り合ってどうするというのか・・・こんな弱気な立場では、とても「連帯」などはおぼつかない。 「マヌケの陽気な付き合い」が「連帯」ならば、やってみる必要もあろうが・・・「クリエイティブ〔アーツ〕コア」にいる者のやるべきことなのか。
フェイスブックのお友達は、はたしてその「陽気な連帯」関係なのだろうか?








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