吉坂隆正と事務所について改めて知る

吉坂隆正+U研究室展を見た。タイトルは「みんなでつくる方法」     ●13日に追記あり。    ●● 14日にも。



ここに日本の建築家の主要な問題を込めた展示がなされている。
吉坂隆正の名前は多分、中学時代から知っていたような気がする。
それほど有名だったし、何か難しいことをやっている人だという印象はあった。

吉阪と研究室の仕事は、ある程度承知していたし、このたびの展覧会で元所員らの想い出のトークビデオもしばし見学させてもらったこともあって、直感的な言い方だが考え方の全容が判った気がした。
要点は吉阪のメンタルで、それは自著「好きなことはやらずにいられない―吉坂隆正との対話」に表れているようだ。内容の一部がコピーされて図面展示の隙間に張られてたが、まだ著書を見ていないので、紹介できない。
恐らく、驚くほどの社会、文明、人間、土地、環境、自然などへの関心と執着があったようで、そのことの確認のためにはもう一度、吉坂の足取りを辿る必要がありそうだ。

いい時代だった。そしてあれは何だったのかが検証を求められている。

(この土日まで。文京区湯島の文化庁国立近現代建築資料館だが、入館はとても判りにくい。土日は旧岩崎邸から入るしかなさそう)
(それにしても建築家には、それほど立派な建物とは言えないが、このような「国立…」とつく資料館がある。「デザイン」にはない。何とかしなければならない)


●追記
吉阪隆正の自著が届いたのでページをめくってみた。

戦後の、解放された真空のような自由のゆえに、何でも言え、何でもやれそうな気持になり、事実、そう見えた時代だった、という感情に襲われるような記述にあふれている。ほとんど滅茶苦茶な感情のほとばしりを待ち望んでいたようでさえある。
しかも「建築家が世界を変えるんだ」という、信じられないような思い込みがまかり通った時代だったと言えよう。吉阪はその源流にいるようなものだったのではないか。スタッフは相当、振り回され、その分憧憬と信頼の念を抱いたに違いない。

大学生だったころに、中国の内モンゴル自治区の方に旅した際に、「そこの草原のゆるやかな起伏を前にして、私は思わずウォーと叫んで走り出した」とある。

破天荒な世界観がまかり通ったあの時代。
1917年生まれで1980年没。ジュネーブのエコール・アンテルナショナルを33年に卒業(16才)というから、戦前にすでにヨーロッパで生活していたわけだ。終戦の年は28才だった。多感なこの時代に応召もされ、記述がないがどこの戦地に送られていたはずだ。戦後の解放に狂喜したのではないか。この経歴からはコルビジュエのオフイスに行くのは簡単だったのではないか。
それだけに抑えきれない激情の発露としての建築、都市計画であったことが十分読み取れてくる。


●●「ウォー」
上記の「ウォー」は、吉阪が「孫悟空の話はこの風景の中から生まれたと直感した」からだった。「空飛ぶアラビアの絨毯の発想だってこの風景なしには思いつくまいとも考えた」とも言う。「同行者は私が野性に戻ったのかと心配したそうだが」と付言している。
1950年、フランス留学が決まり、そこでコルビジュエと出会ったそうだ。33才か。
コルが油に乗っていた時代で、インドでの仕事に同行したのだろうか、また新しい世界に遭遇することになった。
早稲田大学で教え方々、世界の平和活動や、国際会議にも関わるが、旅行、登山は別の本業だったようだ。スタッフにも、吉阪のアルピニストぶりに共感して入所した者も少なくなかったようだ。


本人は言葉では語っていないようだが、スタッフだった斉藤裕子氏が別記していることによると、
「60年代、ネクタイを外し、ひげを伸ばして台地の力を感じさせるようになると、自邸もすがたを変えていく。…」

「ふくさん(吉阪夫人)は、ほんとうに家事は何もしなかった。『理論と理想の全世界観』実験住居がすべてを放棄させた。…手に触れたものすべてを収集する吉阪の周りは、自邸も、書庫も、アトリエの机も本と物に占領される。吉阪が長期不在になると、二階の踊り場から、家具や物が延々と降ってきた。ふくさんがせっせと捨てている。気が付くと庭には物が山積みとなった…」
各家庭に起こる「断・捨・離」問題はここでも起こっていて、住宅にあれだけ論理を持ち込んだ吉阪の現実生活の姿が露わになる。ぞっとするような話である。
なお、送られた戦地は満州だったらしい。