ルノアールと梅原

絵画にとっては幸せな時代だった。      ●気分転換の兼ねて、気楽な追記を:12月12日)●

 それは画家の生活の問題ではなく(その時代は今に劣らず惨憺たるものだったろう)、キャンバス上への直感的な実行力がそのまま創造理念になりえた、ある意味で最後の時代だったから。
「直感的な実行力」と言ったところに注意して欲しい。この後からは、考えて、つまり理念的に組み立てる絵画の時代がはじまったのだから。




ルノアールの絵といえば、小中学校時代から見ているわけだが、「あの太った裸の女の人は嫌い」とか言って(思っていただけかもしれないが)、あまり関心を持たなかったのが実情だろう。 だろうというのは、推定だが多くの小中学、高校生でもそう思っているのではないか、ということ。 それにしては、喫茶店の名前に使われたりして、異常にに普及している画家の名だ。 これで、日本人はルノアールが大好きということになるのだろうか。


三菱一号館美術館(丸の内)で「ルノアール梅原龍三郎(略題)」という展覧会をやっており、家内の希望で昼食がてら見てきた。
梅原はパリについてすぐ見た展覧会でルノアールを発見し(下記注)、これこそわが師と感じ、すぐに滞在しているらしい南仏(カーニュ)に押し掛けたというところが凄い。
木戸で声を掛けたら、絵に出てくるようなお手伝いさんが出てきて、案内してくれたと日記にあるようだ。 その当時の顔写真を見ると、晩年の爺姿とは似てもつかぬ繊細な感じの好青年だ。 もしかすると、この女性が直感的に梅原を気にって、受け入れ役をしてくれたのかもしれない。
ルノアールも優しかったのだろう。 その人生を見ても、作品を見てもほとんど大振れしていない。 言ってみれば職人気質のまま老成したという感じだ。 そんな男だから、見知らぬ東洋人の突然の来訪も受け入れたのだろう。
考えてみても欲しい。 現代なら尚更だろうが、有名人ほど、しかるべき紹介もない突然の来訪者を嫌がる。 それはむしろ小馬鹿にしているといっていい。 多くはそれは礼儀だと思っていて承知しているが。


ルノアールの絵は人物画が多く、また一般の関心も評価もそちらに行きやすい。 風景画は多くないが、その中でもひときわいいのが、日の当たる緩やかな起伏のある草原を描いた「草原の坂道」(1874〜77)だ。
それはモネの描いた「ひなげし」(1873)と近い場所での作品で、モネの絵もとてもいい。 この時、ルノアールは33才、モネより半年遅れくらいの生まれだった。 この地(アルジャントゥイユ:鉄道が出来てパリから北へ15分)に住んでいたモネを訪ねては、一緒に描いていたようだ。 「パリ・コミューン」(1871)の騒動があってから、画家は皆、パリを逃げたり兵隊に応召したりした。 なお、モネが「印象、日の出」を描いたのが1872だったから、印象派の台頭は始まっていた(第一回印象派グループ展は1874)。 もっとも、これも二人の描いたセーヌ川べりのボート乗り場風景(どちらも「ラ・グルヌイエール」という地名のタイトル:1869)には、すでに光の水紋反射を大きくテーマにしていた。 「草原の坂道」も「ひなげし」も、そういう自然の光を受け入れる環境で描かれたのだ。


こんな壮年時代を過ごして成熟したルノアールが68才にもなった時に、21才の東洋人が押し掛けた。
このころのルノアールの絵がほとんど、例の赤みの強い肉まんヌードだったから、梅原の作品傾向もここから予感出来る。
梅原も帰国後、徐々に独自の途を歩み始めるが、生涯ルノアールの視野が消えることがなかった。
漱石がロンドンにいたのが1901〜2年。 梅原が最初に渡仏したのが1908年(明治41年)。 日露戦争が終わって4年目だった。 アンドレ・ジィドが「狭き門」を書きあげつつあり、アメリカではT型フォードの発売が始まっていた。 1914年に第一次世界大戦がはじまる前の騒々しくも、うるわしい時代だった。



(注)梅原が渡欧する前からルノアールのことを知っていて、憧れていたのかどうかは今のところ検証していない。
  

●追記●
ルノアールにも梅原にも直接関係ないが、梅原がパリについた1907年前後は、時代の転換期の真っ最中にあり、面白い時代だったから、もう少し追記しておこう。
まず絵からいくと、このころピカソがすでに「アヴィニョンの娘たち」を描いている。 まさしく創り絵だ(上述の「理念的に組み立てた絵」に当たる)。 ピカソは「これこそ新しいぞ」と吠えていただろう。
それから考えると、1907年にドイツ工作連盟ができたのはうなずける。
蒸気機関はとっくに発明されていたが、電気は1870年代に急激に発達した(ファラデーやモールスから始まり、エディソンの白熱灯発明は1879)。 その後20〜30年の間に急激に都市が明るくなっていったのでは。 マルクスは1883年に亡くなったが、この時代に「一緒に」生きていたのがミレーやクールベ、マネだ。 梅原が行ったころには、現地ではすでに古臭いと思われていただろう。 ただしそれを梅原が感じ取り、分別できていたのかどうかは分からない。
それを考えると、この30年あまりの変化は、相当急激なものだったに違いない。 疑うすべも知らない近代化の大波が押し寄せていたのだ。 
日本はこの大波に何とか乗れたということか。