わからないセザンヌ(次年7月20日に簡略版)

【論】


どこに評価の真髄があるのか


セザンヌの展覧会をやっている(国立新美術館)。
前からひっかかっていたのだが、どうして、どこがセザンヌをして「大家」なのかよくわからない。またどうしても素直に惚れる絵ではない。画家をキャンバス(画布)づらから判断すると、だが。
そこで本物がかなり集まったと思われる、今回の展覧会に出かけて確認した。


結論は、とても残念だが、やはりセザンヌは本当の「基本的才能」があったとはどうも言い切れないようだ、という印象だった。
もちろん絵に表現されている「中身」のことだけで、時代への挑戦とか、今で言うマスコミや、絵画ジャーナリストへの対応のことではない。つまりこの後で引用する美術評論家が言うように、「唯一、無二の作品」を生み出したということでは、申し分なく「大家」といえるのだろう。でもそれだけではどうも「本質的に」面白くないのだ。
これが後の、クリムトとか、クレー、カンディンスキーピカソ、ダリにまで行ってしまえば、もう彼らには作品の「隠し事」はない。つまり、セザンヌに感じるような「隠し事」はない、ということだ。自分の個性を存分に発揮することに何のこだわりもなく、その分、追い詰められている。


ということはむしろ、時代の大きな変遷の中で、セザンヌは自分の作品を説明するのが凄くうまかったのではないか、という印象にもなってくるのだが。
一般に判りやすく言えば、かなりの田舎者の、それだけに執念深い、割と単細胞の努力家、センスも格段にいいわけではない、デッサン力にも疑問が残る、という印象なのだ。
銀行資産家の父親が心配したのも無理もない、という印象だった。
こう偏屈を言うのは、絵が判る(と狂信している=笑い)者だからこそだろうが、その観点からすると、印刷されたものしかほとんど見たことにないセザンヌの実作を目の当たりにして、その絵の具のキャンバスへの「ノリ」とか、筆のタッチが実感としてそう語りかけてくるのだ。


こんなことを言い始めると、セザンヌ愛好家たちから大反論が来そうだ。強く主張する気はないが、でも実感なので逃げるわけにもいかない。


まず、セザンヌが「大家」なのかよくわからないということには、時代とその背景を加味した作品の歴史的位置付けが必要であるということと、作品そのものの持つ魅力やベンヤミンのいうアウラのようなものの表出があるか、との二層の価値判断に分かれ、その前者の方の評価は大いに認めるが、問題は後者の方にあるということだった。


セザンヌが出身地のプロヴァンスとパリの間を終性20回も往復滞在し、そこに考えと行動のベースが出来上がったということは間違いなさそうだ。また、同業のピサロと、文筆業のエミール・ゾラという二人の俊秀な友人に恵まれたことが凄く大きそうだ。それに、銀行家だった父親が莫大な資産を残したということが加わる。


前者の土地の移動がもたらした疑問と評価については次の言い方が適切だ。
「…そうした『プロヴァンス』が及ぼした影響、あるいは特殊な研究を進める時のパリの混沌とした状況、さらにはふたつの拠点のあいだで緊張が高まる中で、どのようにして具象と抽象、形と色彩、伝統と近代性が区別されない、美術史における唯一無二の作品が生まれたのかを理解しなければならないのである」(ドニ・クターニュ:「セザンヌ―パリとプロヴァンス」今回の展覧会カタログより、小泉順也訳・以下本引用はDCとする)


セザンヌは、パリと「次第に距離を取るようになっていく。…パリではいかなる物件(邸宅、アトリエの意味)も買わなかった以上、パリの界隈を自分の場所として記憶に留めはしなかった」のである。
そのことは「パリはセザンヌにとって人が匿名の存在になる『非=場所』であり、作品がプロヴァンス的であることを超えて、普遍的であることを主張する手段として機能していた」(DC)ということなのである。
こうして、「彼はパリで前衛(アヴァンギャルド)と対峙し、さらにボードレールが望むところの『現代生活の画家』となる必要があった。その時に印象派の経験は新たな基軸を与えてくれた。ただし、これらの絵画的な発見の是非については、南仏の太陽の下で確かめてみる必要があった」(DC)ことが見えてくるのだ。
これって今流に言えば、論理的な思考力が長けていたということだろう。あらゆる絵画的な実験が試みられ、受け入れられ始めたこの期においてこそ、セザンヌは自分の仕事の落とし所を見つけたのだと言えよう。これは十分評価に値する。ただし、そのことは作品そのものが魅力的かどうかを説明するものではない。


もう一つの人脈が創ったものへの観察がある。
文豪として名を成したエミール・ゾラプロヴァンスのコレージュ(中学校)時代からの親友だった。そのゾラが大学時代に先にパリに出ており、出て来いと促していた。
ゾラはセザンヌに「パリで、自分たちは、芸術のための共同体を作ろうとしており、そこでは大切な人々によってのみ、その才能がみとめられるのだ」と語っていたという。(マリーヌ・A・ディ・パンツイッロ:「セザンヌにとっての芸術のパリ」同上カタログ、石谷治寛訳・以下本引用はMPとする)
「実際、この時代の成功を目論む若い芸術家にとって、西欧世界における異論の余地のない芸術の都とは、パリでしかない。そこには、美術館、サロン(官展)…収集家、美術評論家がいる。加えて、上流階級のサロンや芸術、文学のサークル、そしてアカデミーといった社交界のネットワークもあった」(MP)
「パリ滞在の日々は、セザンヌにとって欠かせないものであった。というのも、プロヴァンスでは経験することのできない、さまざまな芸術家との競合や近代の芸術的潮流との対峙のためには、そうせざるを得なかったのである」(MP)


そこで田舎者で、しかもパリで頭角を現わすために、セザンヌはどう出たのか。
すでに見た通り、セザンヌは巴里を居住のベースとしなかった。
「彼は、パリの作法を身につけることを拒んで、こうした社交界に属さないということを明確にするため、プロヴァンスの粗野な人物を演じたのであった」(MP)


評伝から推定するのに、セザンヌは都会的なセンスが無かったのではなさそうだ。ただ、自分の居場所を対外的に明らかにする「逆差別化」の考えによって、意図的に田舎者風を装ったのではないか。パリにいてパリ風に振る舞っていたのでは周囲に埋もれてしまうし、より洒脱なふるまいを磨き、育てねばならなくなる。それは浪費と時間の無駄だと感じたのだろう。
そうしておいて、パリにいる時は滅茶苦茶に人の間を動き回って、自分と自作の居場所を売り込んだに違いない。
そこに情報役として重要な役をしたのがゾラだったのではないか。今度、ここで…があるよ、とか、誰それに会っておくと…だ、とか、そういう情報の出所とコントロール役をゾラがしたと思う。
しかし、そのゾラとは、だいぶ経ってからだろうが、自分が小説のモデルにされたという思い込みで絶交してしまう。前後から「証言」らしきものを拾ってみると、どうもセザンヌは対人関係が難しかったようだ。ゾラも亡くなる前に、(モデルの件も)そんなに気にしなくたっていいじゃないか、ともらしていたらしい。


5月13日以降
確か、この日の夜にテレビ番組「美の巨人」で、セザンヌの「この一点」か、そういう取り上げ方で、数ある「サント・ヴィクトワール山」の絵のうちの、両側に樹木を描いた作品を取り上げていた。
その二本の木が、復旧することのなかったゾラとの関係を描いている…という風な言い方で。それはどこまで信用出来るかわからないが…。


銀行家の父親が莫大な資産を残した件については、ことさら言う必要が無い。
絵が売れなくても、勝手なことをやって生きていけたことは、芸術創作にとっては一番、意味のあることなのだ。
だいぶ長くなった。そろそろまとめよう。


5月18日
確かに彼は、この時代の少なからぬ前衛画家が思ったように、そして実際そうしたように、描写力を深める必要はない、と思ったのかも知れない。ルーブルに行けば溢れるような數の超精密観察の絵画に出会う。それよりもっと大切なものがある―それは個人ならではの感性の表現だ―と自認して、意図的に軽視したのかも知れない。
それにしても、そういう立場を貫いて押し通してしまったところは凄い。
普通なら、ああか、こうか、これでもよいのか等と思い悩んで描画できなくなってしまうことも十分考えられるからだ。事実、そうして多くの芸術家が自分を見失ってきた。

その上での話だが、それを押し通せたのは、田舎者故のある種の鈍感さによる理性の優位、パリでのゾラやピサロの存在と心理的サポート、印象派時代に特徴的な、絵画の分解・分析実験を取り入れての、新しいことなら何でも受け入れ可能の時代風潮などとの全体の巡り合わせ、そして親が残した金があったからではないか、ということ。その根底にあるのは、彼が画面上の魔力となる描写の精神的魅力に取りつかれるほどの力(ある種の職人バカ)が無かったからではないか。それが僕のいう魅力の減衰になっているように思う、というのが僕の結論だが、どうだろうか。
こういう分析をすると、近代の建築家などにも当てはまる人物が浮かびあがってくる。