怖く、寂しい社会の到来か(最近、思うこと(その2))

怖い時代になったのだろうか。


数日前、東海道線グリーン車を 品川で降りる時だった。出口で降車を待っている身なりの整った中年ビジネスマン風の男に、僕のバッグがちょっと触った。ドアが開くほんのしばらく前の間に 男は突然、ドアを全力でドンドンと叩き、僕は何なのかと驚き、ドアが壊れるのではないかとびびった。
ドアが開くと、一旦降りたこの男は振り返り、すごい形相で 僕が降りるのを待っている様だった。これは喧嘩の口実を探しているぞ、やばいなと思い、降りて歩くのを止めたら案の定、乗降客がバラバラといなくなり始めた数メートル先で、また振り返り、睨みつけてきた。
巻き込まれたら大変と直感し、こちらも完全に足を止めた。
睨まれること1分余り、さすがに周辺の人も何か変と気付き、足を止める人も出てきて 、この男も階段に向って歩き始めた。

何か知らないが本当に怖かった。
会社で上司に罵倒でもされたのだろうか、バッグが触っただけであれだけ睨まれるとは。

何か、最近の日本社会はすごく変わってきたと実感する。


ネット社会化の影響か、皆、自分の方しか関心がないのか、街でも車内でも 皆、スマホの方を見ている。ゆとりがない。(日馬富士が若手を殴ったのもこれか)。全体にすごくいらついているように感じる。政治家の発言も見え透いた空虚さが漂い 、これからの日本 に希望が持てない。(ひと昔前なら、「解った。私は大臣の座を降りる」という腹をくくった発言もあったはずだ)。

若い人たちの立ち振る舞いも、シャキッとした感じは増したが、 何かパターン化した感じも増殖している。すべてカネで測れる行為だけに集中しようとでも思っているのか、拝金と時間要素ですべてが出来上がっている社会を既定値としているかのようだ。というのは甘いか。実際、高齢化するほど体力の減衰は他人力を必要とし、すべてカネが掛かることになって、やはりカネがすべてなのか、と改めて戦慄する時代となってきた。

それと、皆、寂しいのだろうか。ネットへの書き込みに夢中になって、「私を忘れないで」と絶叫し合っているようにも感じられる。これを書いている自分も?

今夜、若手のカーデザイナー和田智君のトークが建築家協会であり、最後の、会場からの意見の場で何度手を上げても指名されず、最後の最後に若い女性の司会役に捻じ込んで一言発言させて貰ったが(周りから、これで最後と言ったのにまだ言わせるのかよ、と取れるブーイングが発生)、時間オーバー の中でとても発言しにくかった。この時の不満もあるのだろうか、彼の言う、建築家こそこれからの社会の出番だと言う期待の背景を全部知っていると思っている 僕がなぜ、とっくにカーデザイナーへの説得力を示してこれなかったのか、この辺も僕なりに寂しい気持ちにならざるを得なかった。
ネットへの書き込みも寂しいし 、情報が思ったより伝えられないことも寂しい。
それに関わって、無意識で来たが本当に寂しいのは、もしかすると高齢者がその存在価値を失ってきたことかも知れない。そのポイントは、技術革新を理由に高齢者が逆に若者に教えを乞うような事象が生じていることにある。これでは若者に頭が上がらない。
若者は情報過剰も関係して、それが実体験でなくても、老人(経験豊富な先輩)に聞かなくてもいいような判断事象が圧倒的に増えていると実感しているだろう。多くの子を持つ親は、子が成長するにつれ親の言うことを聞かなくなるのは世の常として判っているだろうが、20代でコンピュータ情報の手助けを嫌がり、30代になっても社会経験を聞こうとはしないのを知っている。実際、この産業構造の激変は親の知見を無意味にし、親世代も子世代の未来の不安に答えてはいない。






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