なぜ昔の歌を歌い始めたのか

一人の人生を決めるのは何だろう?

 

色々な転機があり、その時点で過去を反省したり忘れたりして、心情は移って行くようだが、気が付いてみると、今、人生80年を過ぎて全視野的に振り返ってみると、おのが心情を決めたのが10才頃だったのではないかと思われだした。

それと言うのも、最近、フロなどに入って気持ちにゆとりのある時に、何となく口ずさんでいるのが、遠い昔の想い出に出てくる歌だ。それも時代がばれるが、古賀政男の歌や寮歌の類なのだ。

軽井沢の別荘でも浴室で歌っていて、漏れないと思っていたら、トイレの先にある部屋にいた息子が聞いていた。何となく恥ずかしいが、時が経てば息子もいい思い出にしてくれるかも知れない。

 

なぜ、しみじみとこんな歌を歌い出したのだろう。勿論、10年,20年昔でも、たまには歌ってはいたが、今ほどしみじみ感は無かった。忘れていた幼少期の自分が見えてきたということだろうか。その辺に、これらの歌が潜んでいたような気がし出したのだ。

「影を慕いて」(1932:昭和7年:生まれる9年前)を検索していると、どんどん、想い出の曲が出てくる。「湯の町絵レジー」(1948昭和23年:生後7年)、とうとう、美空ひばりの歌まで、引っ張り出してしまった。

越後獅子の歌」が1950年、「私は街の子」「ひばりの花売り娘」が1951年。まさしく10才だった時だ。これらを本当に久しぶりに聴いてみると、あの頃の自分の心情がよみがえって来たのだ。

寂しくもあり、限られた情報だけで生きていた人生の重大な精神形成期。古賀政男が悪いのではない。美空ひばりが悪いのでもない。

でもあの頃、もっと広範で知的で、悲観的でない情報に恵まれていたら、人生をこんなに回り道をしなかったのでは、とも思えてきて、自分が可哀そうにもなる。

そんな心情が、このような演歌を歌わせているのかも。

 

 

なぜ昔の歌を歌い始めたのか(消去)

一人の人生を決めるのは何だろう?

 

色々な転機があり、その時点で過去を反省したり忘れたりして、心情は移って行ったようだが、気が付いてみると、今、人生80年を過ぎて全視野的に振り返ってみると、おのが心情を決めたのが10才頃だったのではないかと思われだした。

それと言うのも、最近、フロなどに入って気持ちにゆとりのある時に、何となく口ずさんでいるのが、遠い昔の想い絵に出てくる歌だ。それも時代がばれるが、古賀政男の歌や寮歌の類なのだ。

軽井沢の別荘でも浴室で歌っていて、漏れないと思っていたら、トイレの先にある部屋にいた息子が聞いていた。何となく恥ずかしいが、時が経てば息子もいい思い出にしてくれるかも知れない。

 

なぜ、しみじみとこんな歌を歌い出したのだろう。勿論、10年昔でも歌ってはいたが、今ほどしみじみ感は無かった。忘れていた幼少期に自分が見えてきたということだろう。その辺に、これらの歌が潜んでいたような気がし出したのだ。

「影を慕いて」を検索していると、どんどん、想い出の曲が出てくる。とうとう、美空ひばりの歌まで、引っ張り出してしまった。

越後獅子の歌」が1950年、「私は街の子」「ひばりの花売り娘」が1951年。まさしく10才だった時だ。これらを本当に久しぶりに聴いてみると、あの頃の自分の心情がよみがえって来るのだ。

寂しくもあり、限られた情報だけで生きていた人生の重大な精神形成期。古賀政男が悪いのではない。美空ひばりが悪いのでもない。

でもあの頃、もっと広範で知的で、悲観的でない情報に恵まれていたら、人生をこんなに回り道をしなかったのではと思えてきて、自分が可哀そうになる。

そんな心情が、このような演歌を歌わせているのか。

 

 

なぜ昔の歌を歌い始めたのか(消去)

一人の人生を決めるのは何だろう?

 

色々な転機があり、その時点で過去を反省したり忘れたりして、心情は移って行ったようだが、気が付いてみると、今、人生80年を過ぎて全視野的に振り返ってみると、おのが心情を決めたのが10才頃だったのではないかと思われだした。

それと言うのも、最近、フロなどに入って気持ちにゆとりのある時に、何となく口ずさんでいるのが、遠い昔の想い絵に出てくる歌だ。それも時代がばれるが、古賀政男の歌や寮歌の類なのだ。

軽井沢の別荘でも浴室で歌っていて、漏れないと思っていたら、トイレの先にある部屋にいた息子が聞いていた。何となく恥ずかしいが、時が経てば息子もいい思い出にしてくれるかも知れない。

 

なぜ、しみじみとこんな歌を歌い出したのだろう。勿論、10年昔でも歌ってはいたが、今ほどしみじみ感は無かった。忘れていた幼少期に自分が見えてきたということだろう。その辺に、これらの歌が潜んでいたような気がし出したのだ。

「影を慕いて」を検索していると、どんどん、想い出の曲が出てくる。とうとう、美空ひばりの歌まで、引っ張り出してしまった。

越後獅子の歌」が1950年、「私は街の子」「ひばりの花売り娘」が1951年。まさしく10才だった時だ。これらを本当に久しぶりに聴いてみると、あの頃の自分の心情がよみがえって来るのだ。

寂しくもあり、限られた情報だけで生きていた人生の重大な精神形成期。古賀政男が悪いのではない。美空ひばりが悪いのでもない。

でもあの頃、もっと広範で知的で、悲観的でない情報に恵まれていたら、人生をこんなに回り道をしなかったのではと思えてきて、自分が可哀そうになる。

そんな心情が、このような演歌を歌わせているのか。

 

 

一人の人生を決めるのは何だろう?

 

色々な転機があり、その時点で過去を反省したり忘れたりして、心情は移って行ったようだが、気が付いてみると、今、人生80年を過ぎて全視野的に振り返ってみると、おのが心情を決めたのが10才頃だったのではないかと思われだした。

それと言うのも、最近、フロなどに入って気持ちにゆとりのある時に、何となく口ずさんでいるのが、遠い昔の想い絵に出てくる歌だ。それも時代がばれるが、古賀政男の歌や寮歌の類なのだ。

軽井沢の別荘でも浴室で歌っていて、漏れないと思っていたら、トイレの先にある部屋にいた息子が聞いていた。何となく恥ずかしいが、時が経てば息子もいい思い出にしてくれるかも知れない。

 

なぜ、しみじみとこんな歌を歌い出したのだろう。勿論、10年昔でも歌ってはいたが、今ほどしみじみ感は無かった。忘れていた幼少期に自分が見えてきたということだろう。その辺に、これらの歌が潜んでいたような気がし出したのだ。

「影を慕いて」を検索していると、どんどん、想い出の曲が出てくる。とうとう、美空ひばりの歌まで、引っ張り出してしまった。

越後獅子の歌」が1950年、「私は街の子」「ひばりの花売り娘」が1951年。まさしく10才だった時だ。これらを本当に久しぶりに聴いてみると、あの頃の自分の心情がよみがえって来るのだ。

寂しくもあり、限られた情報だけで生きていた人生の重大な精神形成期。古賀政男が悪いのではない。美空ひばりが悪いのでもない。

でもあの頃、もっと広範で知的で、悲観的でない情報に恵まれていたら、人生をこんなに回り道をしなかったのではと思えてきて、自分が可哀そうになる。

そんな心情が、このような演歌を歌わせているのか。

 

 

社会的な影響力を失った悲しさ 2023/01/20に参考追記

社会的な影響力を失った悲しさ。

これは自分のことだけではない。むしろ、今の社会構造が芸術家全体にもたらしている問題である。

例えば歴史の現場からは、だいぶ時間が経ってしまっていても、ギュスターブ・モローが19世紀末に描いた「ユピテルとセメレ」という絵は、神と人間と宗教の観点から、見た者を立ち止まらせてしまっただろう。これが「社会的な影響力」である。

この絵はモロー美術館にあるらしい。縦217㎝、横118㎝だからそれなりの大きさだ。

こういう影響力の現代版は無いのか? 表現手段は無いのか?

1898年。ギュスターブ・モロー死去(72才)。例えばコローは既に20年ほど前に死んでいる。モネが「印象・日の出」を描いたのが1872年だった。街ではエッフェル塔が建設されていた。こんな時代に、モローは良く頑張ってこのような宗教画(象徴主義と言われた)にだけ一生を捧げられたものだ。(個人データから転載)

 

後日参考追記:モローを始め、同じような時代感覚を抱いて生きた同時代の芸術家を纏めた本がある。1998年末に新潮社から発行された、河村錠一郎(当時、一橋大学院教授)の「世紀末美術の楽しみ方」という本である。最終章の最後に「芸術―新たな地平」があるが、意味深い記事である。

 

 

最近の個人データからの転載と再編集20221216

最近の個人データからの転載と再編集

 

11月22日:(公社)日本インダストリアル・デザイン協会が70周年をむかえ、特別表彰される。2期に渡って理事長をしていたこと、いくつかの事業が現在の流れに影響している事が直接の評価理由のようだ。

11月23日:昨日の受賞経験を経て、自分の功績、考え方の実態がほとんど知られていない、それを越えて「モノ・空間を繋ぐデザイン文化史」がほとんど語られていないとの実感を得、このタイトルでの新編集を「個人データ」にも始めることとした。考えてみると、この1,2年、ブログもほとんど書いていず、考え方の進渉を受け継ぐものもない。「この個人データに書けばいい」と思う様になっていたが、そうではなく、その感じ方を「モノ・空間を繋ぐデザイン文化史」にしなければならない、と気が付いた。

デザインと建築をも繋ぐ、新しい概念の創出であり、既に考え方、感じ方は随所で語られているのだから、本データ、ブログ、ワード原稿などから再収集することに意味がある。もちろん、実務としての軽井沢の設計では大いに悩んでいる。

12月13日:日経新聞12/11 My Storyに面白い人が出ていた。スマイルズ社長遠山正道氏。息子との学歴共通もあり、近親感から自著を送った。

建築学会情報設計小委員会研究会で古澤大輔氏のトークがあったが行けず、本人のコメント「転用的、迂回的―建築の両犠牲について」、紹介者湯本先生の居るJIA港地域会で問うた。ポイントは建築設計が社会構造まで変えられるのか、そのための「転用」行為は建築家の仕事なのか、という点だ。湯本先生によると古澤氏は「かなりの部分、『言葉』に依存して行っているようで」、(湯本先生個人の経験である)「『個人の営みが社会への働きに転換してしまった』という余り共感を得難い点にむしろ共感したようで」、いろいろな試みを話てくれたとのこと。今度、湯本先生と語ってみよう。

別邸設計へのこだわり

このところ悩みの大きいことに、自宅別邸設計の問題がある。

プライベートなことなので、ここに書く必要はない問題かもしれないが、考え方を変えると、個人の創作行為が客観的な問題提供をするなら、経過やその時点での思考過程を記述しておく意味はありそうだ。

ということで、随時、この問題について触れておくことにする。

 

まず、今日の時点で記述しておくことは、地元(軽井沢)の建設業者を2社選んで面談したことだ。それぞれ大手企業でなく、現場を生きてきた小さな会社に視点を当てている。

同じ敷地に岳父が建てた築48年と34年の物件があり、それをどうするかということで、それぞれの社長に資料を提供して、考えと試算を提示して貰うこととした。ということは、専門家と自称していても、価値評価の差が激しい観光地である上に、このところの建設費や資材の急激な変化を見据えていると、自分だけの判断では危ないという気になって来たのだ。