E@政治と芸術

【大きな構想】


政治と芸術


今日の突然の鳩山首相辞任発表は、こともあろうに国土交通省情報政策局にいて、審議官らの電話のやり取りや話題などで知った。
何と、昨夜の本ブログの呻きが現実になった。
「何とこれで、平成に入ってから首相が16人も代わったんですよ」と小泉元首相が語っている放映場面もチラと見た。(*)


政治の混沌は明らかにこの国が大変化の渦中にあることを示している。
今日までの鳩山総理のブレぶりは、平沼赳夫議員(「たちあがれ日本」代表)の解説などでほぼ解明されている(**)が、こんなにも政治家たちが幼稚であることは、言い換えれば、政治が極度に国民目線に近づいてきたことを意味し、これはむしろ歓迎すべきことなのだとも思われる。


そうだ。価値観が多様化し定まらない大変化の時代は、政治家の技量や資質についても定量的な判断基準ではおさまらなくなっている。そこに僕らの考え方でも、政治を語り得るキャパシティが出来て来ている。


今は政治の季節なのだ。


一方、芸術はどうか。
昨日、美大の女子学生2人が遊びに来て、これから定期的に来ることになったが、専攻が油絵科だ。作品の写真を見せてもらったが、熱がこもっていて上手く描けているが、さて、これからどうするというところで行き詰って来たようだ。
デザイナー、建築家が油絵科の学生を教える?
それが可能なのは、芸術も解体しているからだ。芸術そのものが方法論を失っている。
キャンバス上のタブローにまだ無限の可能性があるのか。言葉との関係、経済との関係に目をつむることで芸術たり得たのは、近代絵画の属性が受け入れられる限りにおいてだった。


僕は遠慮なく油絵科の学生に自説を吹き込もうとしている。
つまり、政治と芸術(一応、現代までの美術作品の総称としておく)は、創作過程にある一人の人間において、同列に語ることが出来る時代になったのだ。



* このブログではどうでもいいようなことだが、16人も?、というのはやはり気になるので調べて見た。カッコ内は在職日数。
竹下昇(576)宇野宗佑(69)海部俊樹(818)宮沢喜一(644)細川護煕(263)羽田孜(64)村山富市(561)橋本龍太郎(932)小渕恵三(616)森喜朗(387)小泉純一郎(1980)安倍晋三(366)福田康夫(365)麻生太郎(358)鳩山由紀夫(266)菅直人(−)。うーむ、確かにどうかしている。

**「なぜ自主憲法を持たないのか」―鳩山総理、切腹せよ―平沼赳夫新潮45 6月号参照)