「秘境」を越えて生きる

あくまで自分を信じて生きる友人イラストレイティブ・デザイナーが語る。


大学時代のクラスメイトはどんどん居なくなっている。
と言うのは、死んでいるのかもしれないし、情報が得られなくなっているだけかもしれない。
去年の11月17日の当ブログで、「『最後の秘境』という現実」を記載(*)、その実態に触れたが、そのクラスメイトでただ一人、メールをくれるのが川村康一君。((*):「最後の秘境『東京藝大』―天才たちのカオスな日常―」二宮敦人著、新潮社)
難聴が出て、人とのコミュニケーションが難しくなったということで、ある会(チャーチル会)を退会することに。その挨拶文をこちらにもくれたので、了解を得て、その一部を紹介。そこには他人事でない――と言うことは、自分の創作環境にも関わる問題提起がある。(小見出しなどは大倉。その他微修正もある)



――――――――――――――――――――――――――――――――――


自分の立ち位置と出発点について


 (チャーチル会に)入会後直ぐ、ある会員に「芸大卒のアナタがどうしてこのような素人の集団に入ったのですか?」と問われました。自分はデザイン分野で職人として生活を立てている身、画家を目指したことはなく、そうなるつもりもありませんでした。ですから画家としてはずぶの素人ですし、多くの団体展の陰の部分も知り、出品したい想いはない、と伝えました。

――受験予備校で学んだデッサンや友達のこと――
後年、この(受験用デッサンへの)正確さへのこだわりととらわれが、真に創造的な作品を目指すとき邪魔になりうると気ずき、クリエイティブ・デッサンというコンセプトがあることを洋書の技法書で知り、字引片手に学び、正しいデッサンから抜け出すための苦労を未だに引きずっています。しかし一方、デッサンの力は自分を客観視するための基礎体力として大切なもの、役に立っていると思っています。

 芸大のクラスメイトは35人でした。2 浪が最も多く、現役4 人、4 浪の人が2人、浪人中から顔を知っていた人はわずかに3 人、親かった良きライバルたちは、すべて落ちてしまい、彼ら彼女らは私立美大へ進んで行きました。
当時の仲間には多摩美ヘ行ったファッションデザイナーの三宅一生さん、武蔵美へ行った絵本作家でエッセイストの佐野洋子さんがいました。彼女は7 年前に亡くなるまで親しく、良き友人で、初期のエッセイに自分のことも書いてくれていました。
 美術系の予備校の講評では評価の点数だけではなく、提出された全作品が掲示されるので、ライバルたちのテクニックもわかり、上位の作品とその作者が誰なのかもわかります。


主体的独立へ


――入社した大手広告代理店でのトップを走る仕事、その後の独立協同事業成功の一方での、厳しい人間関係やカネの話にもまれた結果――
このような状況からロップアウトをしなければ、遅かれ早かれ、自分は神経を病むことになるだろうと悟った次第でした。
とは言っても、デザインから足を洗う勇気もなく、組織と組織の関わりで仕事をして行く以上、眼をつぶらなければならないことがあり、きれいごとは言わない大人にならなければと。

そこで、自分の持てる知識と経験、表現の技量を元手になんとか生き延びようと、フリーランスで仕事を続ける覚悟を決めました。
 このことをCM の業界で名前の知られたアメリカ人友人に伝えると、「日本で無名でフリーということは〈乞食〉になることだ」と言われました。
確かに、同一思考、同一行動を善しとし、もたれ合う我が国の精神風土の中、自立的な生き方がいかに難しいかがわかるのに時間はかかりませんでした。
 一般社会において取り立てて特徴のない仕事に関わる人たちから、「芸術家は自由でいいですね」と言われることがありますが、自分は芸術などを目指したわけではなく、グラフィクデザインの分野で個人として働ける職人の場を可能にしたかっただけなのですが、これは相当に甘い考えであることは明らかでした。


現代アートに潜む経済第一主義の危機


 チャーチル会に入会させていただく少し前、安井収蔵 著 「当世美術界事情Ⅱ」を読み、この国の画壇の裏面のうさんくささを知り、「世間で通用する芸術家は純粋」という捉え方を信じていけないと了解した次第です。もちろん、旧来の画壇などから距離をとる表現者は多数いますが、最近の傾向では経済の安定を求めて、一時期減少した団体展への応募が再び増えつつあるとのことです。
 芸術は本来的には経済を求めて行われるものではなく、かつては経済に余裕を持つ教養人がパトロンとして支えた時代がありましたが、進んだ資本主義のもと、新たに経済的に成り上がった階層は、おおむね無教養な人々に占められ、芸術は流通商品となり、これをビジネスとする人と職業芸術家が一体となつて販売に力を注ぐ時代になっています。
 一方、1960〜70 年代にかけ、コンセプチュアル・アート概念芸術)と呼ばれる前衛芸術運動が始まりました。この動きは、それ以前の様々な主義主張はあるにしても、総じて美的な価値を求める作品制作とは異なり、表現に至る思考と過程をより重要視した活動です。
したがって、表現がわかりにくく技術的にも、もの足りない作品、技術より思考が優先、表現の根幹である感性すら貧しい作品がばっこする時代となった感があります。
 他の芸術分野=音楽、舞踊、演劇、文学など基礎的な修練を土台に、創造の高みにまで登る過程での努力は必須で、社会的名声を得た後の研鑽も当然です。技術の向上が思考を高め、感性をより豊かにする側面があることは明らかです。


無二の親友が語る日本人


――「日本で無名でフリーということは〈乞食〉になることだ」と教えてくれたアメリカ人ピーターは、無二の親友になったようだ。彼の経験、彼への尊敬の念から以下の余談を――
(彼は)青山、六本木界わいを闊歩するアメリカ白人とは距離をとり、彼が言うには彼らの多くは、優良企業或いは外交官としての一時の滞在者か、アメリカ社会を嫌って白人コンプレックスのある日本なら大きな顔でいられると、ここへ逃避している人たちと観ています。

一般的日本人については、外国からの旅行者には、おもてなし精神とやらを発揮し、とても親切だが、いざ、仕事を持ち定住しようとすると、おおむね冷たい態度をとり、よそ者扱いをする人も多く、差別を感じると言っています。
日本の高齢化社会の到来は、日本を愛し長年ここに住み、今後も、それを続けたい高齢外国人の友人にとっても、深刻な問題です。
元気で働いた時にしっかり税金を納め、日本語でのコミニュケーションにも問題がなくても(日本への)帰化は難しく、日本人と異なる顔立ちをしているかぎり外人として扱われ、ここは決して安住の場所にはならないと言っています。


近況について


 自分は40 代後半から10 年間ほど朝日カルチャースクールのリトグラフ教室へ通いました。
芸大でも実習はありましたが時間が短く、もの足りなかったので受講し、仕事場の床を補強して200kg もあるプレス機を手に入れました。
その後しばらくして仕事でコンピュータを使いだし、これが絵を描く作業の途中過程でも有効な道具になるとわかりました。絵を描く人々の中、コンピュータなど使うのは邪道と、これを嫌う向きはありますが、自分はまったく新たな画材の一つにすぎないと捉えています。
 その後多忙となり、リトグラフ制作はできず、結局プレス機は宝の持ち腐れとなりました。(川村康一)


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


補記:川村君がどんなイラストを描くのか、この挨拶文にも添付されているが、取りあえず過去の当ブログでの紹介に戻ろう。
2015/10/01  「美しきクラスメイトの現在」を参照。





・17:00 8020