「色即是空」を考える

休暇中に空想めいたことを考えたが・・・


素人なりに「色即是空」を考える




1970年代の高度成長期をサラリーマンや自営業で必死に生きてきた者にとっては、より生産性の高い目標を掲げ、そこに向って邁進するというのが当然の論理のように感じてきたと言えるだろう。
そこから富も地位もついてくると考えていたのだ。デザインもある時点まで、この考えに浸食された中で生きてきた。
今、モノ溢れの日本において、あらためてこの考えに基づく「蓄積の思想」が行き詰まりを迎えている。
その理由の一つが、この活躍世代の者たちが「死」を意識する年代になった事によって、モノへの信仰がぐらつき出したことによると思われる。死後の世界にまでモノを持って行けない。ならばモノを生み出す価値とは何だったのか。そこにはモノそのものに限らず、名誉や自尊心、所有欲、あるいは財産まで含めてモノと言っても良さそうな「現世のうっとうしさ」が見えてきたのだ。
これを「盤若心経」によれば、全部くくって「色」と言っているようだ。
デザインを語りながら「盤若心経」の展開とは、自分の意識の勝手な演繹だが、それでも、まさに日本人がやっと個人に還り、国民性が持つ本来の心性を再認識して人生の意味を再検討するところから、現世的な産業や文化を考える余裕を持つに至った、ということの表れなのではないだろうか。
「色即是空を考える」とは、その意味で軽視はできない。
考えて見れば、便利は面倒臭さとセットだった。一番、身近で簡単な話、電池を入れて機能するものは、ある時期に電池を交換しなければならないが、この時期が見定めがたい。周りにいろいろ電池つき商品があると、もっと判らなくなる。同じように、あらゆる事が「期限つき」だ。これで追いかけられる。

「色即是空」は、この世のあらゆる事は「空」、すなわち「無である」と言っているようだ。この考えは日本人にはなじみの深いことで、ごく自然に受け入れられる。今、この考え方、感じ方が、物欲で来た人生観との折り合いを求められているのだ。
特にクリエイターのように、「モノを生み出す」なんていう「業」を背負った職種では、「捨てること」を教える伝統的教義と真っ向からぶつかることになる。どうしたらいいのか。
われわれにとっては「良いモノは残す」ということに微塵も疑問が無かった。だから古い町並の保存や歴史的建造物の保護に賛成し、デザイン・ミュージアムを創って製品となった工業デザインを保存し、出来る努力をしてきたわけだ。
今、人々は観光と称して、好んで古い町並みを訪ねて歩く。これが「無である」となったらどうなるのだろうか。あるいは、できてしまったモノはいいのだろうか。何でもそうだと言えば、「悪法も法だ」となり、社会の改革も無くなる。このようにして、自我を生み自分の人生を大切になどと言われる時代を経ると、何が良くて、何が悪いか判らなくなる。
確かに今は歴史の転換点に立っていて、モノから情報への時代であり、価値の総合化も起っている。ある種の人の生き様は、取り立ててその人の関わる「モノそのもの」を拾い上げなくても、意識して生き、残した行為の全体が「歴史情報」であることになり、全体の保存が望ましいということもあろう。
その一方で、あまりに多くの個人が「作家」と称して、有象無象の「がらくたモノ」を残してどうなる?という状況だ。 ただでさえ,今やPCの個人データが死後そのまま残り、問題になり始めているようだ。残すについては、歴史性の見地からの深い考察が必要だ。
最近では、アンディ・ウォーホルバルテュスの展覧会などで、身辺事情が判るような生活用品や,愛玩物までが展示されているが、その意味では悪い氣はしない。
しかし他方では、メディア宣伝力を逆手に取って、自分から情報宣伝を受け持つデザイナーのような人種も増えているため、正確な時代情報が判別しにくくもなっている。専門業界情報は外部では判りにくいために、メディア情報をそのまま受け取ってしまうことも生じ易い。
そんな生臭い生態をさらしているのが、多くのクリエイターだろう。そういう場合の多くは「モノ情報」だが、時代の変革を予感させないなら相手にしたくない。
このことはすべて自分にも降り掛かってくる。自分はどうするのか、ということだ。 


もう一度「色即是空、空即是色」を再考すると

一般的な話だが、日本でクリエイターが認知されて来なかった理由は、新規職業、輸入職業、そして大企業主導の高度成長期や、その後のグローバリゼーションによって、ますます見えなくなったという側面はあるが、マスプロ商品としてのモノの持ちにくい、「空」としての「空しい」「寂しい」「いとおしい」や、あるいは逆にネガティブな指摘となる「物々しい」というような感覚と遠かったからではないかという気もする。
それが言葉では語りやすいし、伝統芸術にはこれらへの予感がついて廻る。一般人には、こういうものの欠如分だけ、使い捨て商品として無関心になりやすい。教育がサポートして来なかった分だけ、クリエイターたちの側から社会改革にアプローチしていくには、「無」や「空」との関わりについて言及していかねばならないのかも知れない。

自分について言えば、時代の先回り役はまず言葉によるしかない場合が多いと思うからには、言葉での展開が多くなっても仕方が無いと思っている。幸い内容のある言葉は、「モノ」すなわち「色」では無く、意味のない「空」にはなりにくい。「思想は残る」と考えるのだ。ただし、時代を背景にした思想性がなければ意味がない事にもなる。
その上でだが、言葉によらないクリエイティブな思想とは、言葉の論理では説明しきれない感覚的な表現があってこそだから、これをどう逆らわずに「感覚として残す」かが問題となる。
思うに、これは映像表現としてメインはデジタル映像データで残すしかないだろう。そして出来るだけ、ほんのわずかに、スケッチ、絵画、模型、実物(自分の設計した機器、家具など)を残すようにするしかないように思える。後でデザインの考え方を「二元化」として説明するが、言葉で思想を残す方と、デジタル映像データでイメージを残す方の両方の事を言っているとも言えるだろう。
この指針の見えない混沌の時代を、笑い事のように言わせてもらうが、10世紀後になって検証しようとする時に、判り易いように分別しておくことが意味を持ちそうだ。

身勝手なこと言っていると思われるかもしれないが、自分を偽る事は出来ない。「自分の居るところで咲く」しかないならば、自分のやっている事を援護するしかない。このことは現代芸術の大きな指針であると信じている。