岡倉天心の現代的意味(1)

【論】 追記●以降1016


岡倉天心の現代的意味を求めてさまよう(その1)


すでに自著(「デザイン力/デザイン心」)でも取り上げたが、天心は何かすごく僕の近くにいる。それでも、彼の破天荒な人生経験を追ったり、「茶の本」の解読や解説に呑まれていると、どうも天心のある面を見失なっていそうな気がする。天心が持つものに現代的意味があると感じてきたので、それを少し紐解きたい。


まず何より1862年(文久2年)横浜の生まれ、1913年(大正2年)に52才で亡くなったことが意味するものだ。今から153年前に生まれて102年前に亡くなった。1868年が明治維新の始まりならば、彼の生後6年目にこれが起こっていることとなる。ほとんど生命への開眼と歩調を合わせた歴史の偶然だ。
ということは、150年も前のことであり、まさしく長州藩奇兵隊兵たちが、勝ち目がないと見えた戦いに命を張ることを強いられた激動を越えてきた時代のゆえ、簡単には今と比較できるようなものではないのは明らかだ。そこには250年を越える幕藩体制の途方もないしがらみがあった上でのことだ。
それゆえ、天心の想いのうち、利害のない意識を形成した幼年青春期をとらえてみること、彼の成した行為のうち、時代背景の利害得失によってなし得たことを引き算して考察してみることが必要のように思われる。


その時代からすれば異常なほどの英語能力の発端は、7才の頃から山下にある高等学校で英語を習っていたからだが、それは西洋人を顧客に生糸を扱う貿易商人だった父勘右衛門の、これからは英語が必要とのはからいによるものだった。そこに横浜育ち、貿易商人の家育ちという偶然性が加味される。教わったのはジョン・バラーという宣教師だった。その後9才の時に母を亡くし、菩提寺である長延寺に預けられたのだという。ここに亡き母親への哀惜の積もる人生の出発点がある。
長延寺は西本願寺の末寺で、横浜開港当時はしばらくオランダ領事館に充てられていた。そこで住職の玄導和尚から「大学」「論語」「中庸」「孟子」と、漢学を学んだ。英語の習得も並行させられたと言われている。
11才の時に、父親が福井藩から委託されていた店も廃藩置県のあおりで閉店となり、一家は日本橋蠣殻町に越すことになり、これを機に家族との同居に戻った。
13才で開成学校(後の東京大学)に入学して、アーネスト・フェノロサとの運命的な出会いがあり、彼の人生の方向が決まったようだ。凡人から見ると、文明開化のこの年で、和学・英語・漢語習得、東大入学とくれば、すでに人生の勝者として選ばれたも同然と映るのも無理もない。
15才の頃からは、当時文人画家として名高かった奥原晴湖女史について南画を学び、森春涛について漢詩を、加藤桜老からは琴曲を、茶道を正阿弥に学んでいる。恐るべき教養人である。
この後18歳で、わずか13才の大岡元子と結婚、19才で開成学校を出て今の文部省に当たるところに就職と聞けば、いかに早熟で手回しのいい人生を始められたかが判る。20才までに人生の主要な通過点を全部越えてしまったようなものだ。


気が付いたら藩はなくなり県になる、なんてことは統治体制がひっくり返ることだから、手続きや礼節も、自己や家族の内に習慣化された徳育が無くなればガラガラポンになっただろう。
このように社会の体制が極度に変わってくれば、しがみつけるのは自分の経験してきた教養がつちかった文化的な想いだけになるのも想定できる。なぜならそこまでは、人間関係から生ずる葛藤やいさかい、陰険な策術や徒党組みなど、人生の手練手管の経験を経て得るような生臭いものは何もなく、他人や規則に左右されず芸術的感性のうちに自己の想いと行動を決めることができるだろうからだ。(資料は「岡倉天心茶の本』鑑賞」立木智子著:淡交社による)


●巨大化する産業の興隆におののく心理と、それへの対峙の発生

いわば天心のアイデアは「茶の作法」を総合芸術と位置づけることにあった。その発端は、目の当たりに見た近代工業化社会の腐敗と混乱を、芸術によってこそ回生されるはずと考え至り、その見えるカタチに和の作法があると捉えたのだ。もちろんそこには、国際的にみて芸術文化の徒としても理解されていない辺境の民である日本人の矜持もあった。


これも幸運というべきか、多分開成学校で1882年(明治15年)から来日していたウイリアム・スタージス・ビゲローと知り合い親交を深めたが、そこにこれも来日していたアーネスト・フェノロサが加わって三井寺法明院の阿闍梨・桜井敬徳に師事し、受戒して「月心」の法名を受けたりしていた。そして、ビゲローの父親がボストン美術館の理事であったことにより、父の死後その要職を受け継いだことが、天心をボストン美術館に結び付ける事にもなった。今も昔も変わらぬ運と人脈がここにも、と言うのは言い過ぎか。

当時のアメリカ合衆国がどんな状態だったかは、立木智子氏の説明がよく語っている。

―近代化が押し寄せる中で、都市化が進み、南欧、東欧からの移民が増加し、アメリカ文化の伝統的な価値観が崩壊していく時期にあった。大量生産にもとづく機械文明がはびこり、芸術家が疎外されるような社会に飽き足りないボストン・ブラーミン(補注:ヒンズー語の最高階級の「司祭者層」という用語をボストンの旧家出身の教養人に当てはめている)、は、新しい価値観を模索すべく、東洋の文化、特にその美術、宗教に精神的充足を求めた―

ボストン・ブラーミンがどこまで芸術家の疎外まで意識していたのか、さらに本当に新しい価値を東洋の文化、特に美術と宗教に求めたのかは定かではないにしろ、天心を取り巻く美術環境では、そのような空気が醸成されていったと見るのは妥当だろう。実は天心が渡米する以前に、すでに来日し先に帰国したフェノロサ生物学者エドワード・モース、歴史家・小説家のヘンリー・アダムス、画家のジョン・ラ・ファージ、イサベラ・ステュワート・ガードナー夫妻などがいて、日本文化や茶道について紹介していたのだ。すでにこんなに訪日客がいて、日光に行ったり、京都に行ったりしていたのは驚きである。ルートは、横浜からサンフランシスコ、そこから大陸横断鉄道で東海岸に行ったようだ(1869完成。つまり明治維新の翌年には東西が繋がっていた。パナマ運河の開通は1914)。ハワイには寄ったのだろうか。どんな船だったのだろうか。まだ蒸気タービン機関だった「タイタニック」が沈んだのは1912年。ペリーが蒸気船で来てから約50年(1853)。それから想定すると太平洋横断はもう問題無かったのだろう。ここからも技術の大飛躍が読み込める。西部ではもうインディアンの襲撃などは無かったのだろう。こういう情報は別途資料によらねばならないが、今想っても胸がワクワクする。


天心の生まれた年には、アメリカはまだ南北戦争の真っ最中(1861〜65)だったが、この後、大陸横断鉄道の開通、ベルの電話機やエディソンの白熱灯の発明(76、79)、西部フロンティア開発の進行、金鉱や新油田の発見と採掘の工業化、自動車の開発(ちなみにT型フォードの「発売」は1908年)などで一気に産業が発展して行く。このために一攫千金を求め投機によるカネが物を言う時代となり道徳的な退廃も強まったのだ。

天心がビゲローの呼び掛けで渡米し、ボストン美術館に勤務したのが1904年(明治37年)で41才だった。翌年に茨城県五浦に六角堂を建てているので、1年あまりで返ってきたのだろうか。それはこれから調べる。そして1906年明治39年:43才)「茶の本」を出版している。であれば、アメリカで講演用に執筆し、ラ・ファージらの努力で帰国後出版されたようだ。


先に述べたように、ペリーの米艦隊が浦賀に来て(1853)からすでに50年を過ぎていて、欧米追従の真似文化の典型である鹿鳴館の開館も1883年であったし、パリ万博でエッフェル塔が出来たのも1889年だった。建築ではシカゴでルイス・サリヴァンが高層ビルを建てて活躍し、1867年生まれのフランク・ロイド・ライトが住宅を設計していた。1902年には日英同盟も結んでいる。
そういえばライトでさえ1905年には来日している。ライトは自ら認めているように、1890年には日本建築の影響を受けはじめ、93年のシカゴ・コロンビア万博を見て一層顕著になった(「現代建築史」ケネス・フランプトン中村敏男訳:青土社)。この万博に日本政府は「鳳凰殿」を提示していて、ライトは床の間の扱いと暖炉の意味性を結びつけたという。こういう情報も直接、間接的にボストンに着いた天心の耳に入っていたのではないだろうか。そうであれば、東海岸における日本への関心の大きさが、天心の活動を一層助けた状況が見えてくる。


20世紀の夜明けの1900年(明治33年:天心37才)には、すでに天心の創った東京美術学校は開校されていたし(1889:26才)、日本は日露戦争に勝利して沸き立ち(1905日本海々戦)、日米欧の社会がそれぞれのレベルで体制を整え、大競争をしていた時代だった。そういう時にボストンに呼ばれたのである。日本国内でも欧米の知識と日本文化の意味を比較考察できる状況であり、そのための時間はあったわけだ。

こういう時代であれば自国の文化について、このままでいいのかという危惧や、欧米の文化をうらやむのでなく、冷静に見つめ直し、彼我を考量しようという氣になるのは追いつめられた良心としては当然であろう。天心はまさしくその渦中にいたと言える。ボストンで感じ取ったアメリカの興隆と腐敗、後発国日本人への無理解などは、英語が判っただけに、まさに天心を、このまま黙ってはいられるかという気持ちにさせたに違いない。

この時代の空気には、産業革命時を経てウイリアム・モリスが感じたものと非情に良く通ずる、時代への危機感があった。

(後述の予定が、長くなるので、この後の日のブログで続けることにする)