岡倉天心の現代的意味(3)

【論】

岡倉天心の現代的意味を求めてさまよう(その3)


さて本題だが、百年前となると、歴史学者のように原点から詳細に説き起こすようなことになりやすい。しかし僕にはどうも、カビが生えているような雰囲気や、抹香臭かったり、権威掛かったりすることが苦手だ。そこには第二次大戦時に、天心の「アジアは一つ」が逆利用されて国家の命運を担う伝道師のように格上げされたことも悪い影響があるのかもしれない。

天心自身も、ややもするとあの法衣のような和服姿や、釣り船のための衣装デザインが邪魔をして(デザインが悪いのでなく誤解されて)、そこにあったかもしれないモダニズムの萌芽を見失いそうになってしまう。確かに滑稽なところもあるが明治の諸侯が「これでいいか」とばかりに洋装や軍服で写真に納まっているのに、知る限り天心の洋服姿は188年のモース、フェノロサ、ビゲローと撮った1枚くらいしか見ていない。ボストンでは和服で通し、日本人であることを喧伝することにもなった。それに憂鬱そうな表情が多く明るさが足りない。九鬼波津子(「『いき』の構造」を著した九鬼周造の母であり男爵九鬼隆一の妻)との恋愛やバネルジー夫人(インドの詩人タゴールの遠縁)との恋愛感情の交換などを仕出かした男なら、もう少し優しい雰囲気があってもよかったのに。
そこを注意して和服を脱いでもらおう。


茶の本」がアメリカ人への講義をベースにした原稿だったとは述べたが、そのこともあってか翻訳された文章からの判断になるが、英文はわかりやすく機知に富んでいると読める。そのことはNHKテレビ講義の大久保喬樹教授も言っていて、道教や禅の話でもたとえ話を入れてわかりやすくしていると述べている。
さらにそのことから以外とも取れるのは、「『言葉には信を置かない』という天心の言語観も透けて見える」(大久保氏)ということだ。
―禅の教えに「不立文字」と言う言葉があります。これは、つまるところ、真理は言葉によっては表現伝達しえないものであるということを意味します。実は天心も同じ考えをもっていました。……彼の主要著作も、たまたま機縁があって書かれたものであり、これらの執筆にあたったのも、前後四年ほどのことにすぎません。天心にとって、著作とは所詮、その多様な活動の一部分にとどまるものだったのです―

同感である。私事になるが、このブログでも何度も「言葉への信頼度不足」について述べてきた自分の考え方と少しも違っていない。であるなら「茶の本」ももっと気楽に取り扱えるし、天心の本心も見えてくる。
「虚」や「愚」などの不完全を意味する言葉の内に美を見出すことは、我々日本人には慣れているが、これをわかりやすく欧米人に説明することは難しい。そこに取りついて成した功績は大きいが、ふと、考え直すと、今の日本でも、このままで大丈夫なのだろうかという気にもなる。


最近知ったのだが、「(長州人は)政治的なことはいいのですが、他のこと、たとえば文化的なことはからっきし興味がない」(談:半藤一利/鼎談「安倍晋三と長州人」文藝春秋本年2月号)という。明治以来、この国の方向を決めてきた吉田松陰高杉晋作、木戸孝充、伊藤博文山県有朋などをはじめとして多くの元勲が長州人だったわけだが、それで分かったと言いたい。この国には文化を国威のレベルで扱う思考力が育ってこなかった理由が。
それで横浜出身の天心は、利用するときだけ利用されて鼻もかけられず、破綻児的な人生を歩むことになったのではないかという推測もあながち的を外れているわけではないように思う。アメリカに行ったのも、かの地で日本と東洋の美術の蒐集、保存という目的もあっただろうが、「日本にいてもしょうがない。らちが明かない」という気持ちになっていたことも考えられる。
そうであれば、天心の所業は、百年を経て、政治家や経済人の多くが文化的意識について何も変わらない今こそ、改めて見直し、社会に問いかける必要のある行為であったと言えるだろう。それは、彼独特の平和主義や自然との共生への思想に留まらないのだ。