ホイッスラーのやさしさ(その2)pv220000

【論】 ホイッスラー論(その2)  (2015/02/26まで補足あり)   
 修正と追記:2015/02/28 ●印


そこにある「ジャポニズム」の把握の仕方
―日本的美の感性への相互理解の可能性を求めて―
受け継がれなかった清澄な空気感と、さんざめく太陽の光




前回(その1)、もう一つの主要な問題を迂回してきた。
それはホイッスラーのこだわった「ジャポニズム」への理解の仕方だ。
僕が展覧会を見て、知らなかったホイッスラーの作品に急に惚れてこれを書いているというのなら、ちょっと違う。後を追って頂こう。



ある巡り合わせで、彼は人生で少なくともパトロンと言いうる3人のコレクターを得ているが、彼らが浮世絵や日本の陶磁器の蒐集家でもあったことは、より大きな影響をもたらした。
各作品について、明らかに影響を受けたと思われる個々の浮世絵版画そのものと比較して論ずるのも楽しいが、以下に簡単に紹介だけして、それ以上は専門研究者に任せよう。
それより、ホイッスラーが生涯に渡って日本の美術に関心を持ち続けたのが、その対自然観に共感したからだろうという点が重要だ。
さらに明治後期から大正にかけて、今度は逆輸入というかたちで、日本でも、画壇や今で言うジャーナリズムの間で、ホイッスラーが大きな話題になっていたようだ、ということが興味深い。このことが今時の我々世代になって、新しい発見であるかのように意識されているということが大きな問題である。


すでに1860年という「境となりうる年」については触れたが、1817年あたりから英国船がしばしば浦賀に来航し、23年にはシーボルトが長崎に来たなど英米蘭の来船が増えだし、このため25年には異国船打払令が出されている。42年に令を緩和し、53年にペリーが浦賀に来たわけだから、40年位の経過を経た1860年という年には浮世絵などがかなり流出していたことが考えられる。よく知られているのが、陶磁器の包装紙として使われていたということである。
ホイッスラーはパリに出た翌年(1856)以降に、知人などを通してすでに北斎漫画などから始まって歌川広重の版画などを見ていた形跡がある。(1861年作の「艀(はしけ)」というエッチングに見られるような、広重の「東海道五十三次のうち見附天竜川図」とのイメージ的な相関性などから:以下出典/「ホイッスラーのジャポニズムとその広がり」小野文子信州大学准教授より)
浮世絵からの啓示のついでに、(その1)で「話しついで」としながら紹介した「陶器の国の姫君」―モリスの妻を描いた絵に似ているとした―が、特に葛飾北斎の「立美人図」とポーズやアングル、そして着物のカーブ・ラインまでもが近似しており、それは続いて、どこか鳥居清長の「美南見十二候 六月 品川の夏」などの立居振舞いの女たちにも似ているところを指摘しておきたい。


そこから例の、ラスキンに罵倒された「闇夜の花火」のイメージが、広重の「名所江戸百景のうち両国花火」から得たのではないかという繋がりになっていく。
同じころ、これも広重江戸百景の「京橋竹がし」という、月夜に大きな木橋を渡る人々を描いた風景に触発された「ノクターン:青と金―オールド・バターシー・ブリッジ」も制作され、このあたりになると、日本人にもじんわりと感じるものがある。このようにホイッスラーは、直接コピーしたり、近似の画像にするのではなく、触発された和のイメージを一旦、自分の脳裏に還元し、そこから感覚的な美としてのエッセンスを自分流の画面で再生しようとしたのだ。
それにしても、なぜこれほど日本の浮世絵に感化され、その本質を読み取ろうとしたのかについては、日本人の僕には読み切れない所もある。一時的な異国趣味への傾倒はあるにしても、長い期間に渡って拘ったことについては、やはり自己の美意識とマッチするところがあったと言うしかないのかもしれない。


ところで話の終りに、逆輸入され、明治後期には知られるようになったホイッスラーの影響が気になる。
1890(明治23)に美術商の林忠正が美術の定義についてホイッスラーを取り上げ、それが東大教授外山正一との議論に発展したようだ。外山は画家の問題として「画題」を取り上げたが、林は技術を含めた表現そのものの重要性を指摘した。それはラスキンと対峙したホイッスラー本人にも比較されよう。当然、林はホイッスラーの立場を擁護し、このあたりがホイッスラーの本格的な日本紹介の口火となったらしい。
「日本における紹介や受容で特徴的なのは、その内容がホイッスラーの唯美主義についての考えやその解説が中心であったこと」で、明治30年代後半から大正7年までのおよそ20年間の間に、美術雑誌だけでなく、『明星』や『早稲田文学』『芸文』にまでさかんに取り上げられた。
これらは、ホイッスラーの「自尊心の強い天才」の姿とか、「自分の美意識に対して絶対妥協しない姿勢」の評価となり、「日本の多くの芸術家たちに感銘を与えた」という。(小野文子氏)
それだけに作品が、木下杢太郎、竹久夢二北原白秋石井柏亭らにまで影響を与え、木下は「パンの会」を創り、「西洋近代を理想とした若者たちの文芸運動」の母体となった。


こんな時代があったことは、知ってみれば、そうかと思うだけかもしれないが、大正デカダンに進む中で、庶民には行くこともままならない先進国たる英国やフランス、あるいはドイツへの敬愛や憧れを交えたまなざしから、ホイッスラーの考えや作品に見えた親和性が、新しい美術創造への勇気づけの原動力にもなったことを思いやることは十分、意味があるように思える。それが日本画壇においてもわずかに見えたが、結果として(フランスに代表される)印象派で花咲いた「近代主義的偏向」を●受け入れるまでには至らず、いまだ「希薄な和洋混交の美」の提示だったと言えるのではないか。なぜならこの時期、日清戦争(1894:明治27)、日露戦争(1904〜5:明治37〜8)を経て、民衆は大正デモクラシーをまさぐる一方、国は結果から見ると、身の程知らずだった軍拡に邁進し、日本は暗雲垂れ込める狂気の時代に突き進んでいったからだ。
ホイッスラーは忘れられ、本質的な意味での課題を未解決のまま現代に及んでいると言えよう。●当然、そこには近代経済と産業社会興隆の大始動があり、そのことによってデザインが模索され始める20年は前であった。


●補記:19世紀の最後に、明るく爽やかな空気感を描けた絵の一例に、黒田清輝の「湖畔」があるが、1897年の作。また、典型的な印象派の一人、アルフレッド・シスレーがますます光の中を歩き回って描いていたころが1880〜90年代だろう。その割には日本では、この黒田の絵のように清澄な画面を描いたり、印象派の明るさの影響を受けて描いた絵がこの頃も、その後もあまり思いつかない。
続けてよく知られた絵画の例で示すと、1900年になっての藤島武二の「海の幸」(1904)も、和田三造の「南風」(1907)もどこか、意思めいていて暗さがあり、すでに来ていた時代を感じさせる。
ホイッスラーの教えに近さを感じさせるのは、例えば浅井忠は1900年に44才だがもう一つ徹底しない印象であり、他には外遊経験のある水彩画家、大下藤次郎(30才)や三宅克己(26才)だろうか。石井柏亭(18歳)は若すぎて乗り遅れたような感じ。
ホイッスラーの心理印象絵画や、シスレーのような外光印象派の表現心理が輸入され本当に体感される前に、社会がどんどん暗くなっていったという感覚はこの辺から来る。








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