現代アートを拾い上げてみれば

【論】        追記: 2015/02/27 ●印


菅 木志雄を紹介したい


このところ、現代のクリエーションの立場や居場所、あるいはその周辺の考え方、さらにはその視覚表現を、デザインに関わるいろいろの分野から取り上げている。
その際に、現代アートに対しては、「すでに崩壊している」という立場から見ているのが僕の視点だということは、所々で紹介してきた。
そういう意味ではアンディ・ウォーホールまでを除いて、少なからぬ現代作家については、その努力を認め称賛しつつも、ほとんど意味がないという実感を持っている。
そんな中で、上から目線の感想になってしまうが、ぎりぎり認めてあげたいという注目する作家が一人いた。
菅 木志雄(すが・きしお)である。
年も僕らに近く、何をやって、どうやって「喰ってきた」のか知らないが、親近感を抱く。


美術館の展示室の周囲壁に、床から40センチのところにワイヤーをランダムに張り巡らして浮き床状の構造を作り、それぞれの交点の上に気まぐれに切断された板切れ(自然木ではなく、合板など)を乗せただけの展示や、同じ程度の高さでランダムに並べたコンクリート角柱(断面一辺15〜18センチ程度)の上に薄い半透明のビニールシートを張って浮いた感じを持たせ、それぞれの上に小型の岩石を乗せた作品など。
自然石を使うのは「加点を稼ぐ」ことであり、これだけで「いい作品」に近づいてしまうので、その分の減点を計算に入れておかねばならない、という感想を持っているが、全体の構成要素としての落ち着きが見れれば、受け入れられる。

菅自身はいろいろ語っているし、会場には制作ノートも展示されているが、それらはほとんどが文章で書かれたものだ。この点でも共感するものがあり、よくやっているとエールを送りたくなる。


菅がどんな論理でこれらの「作品」を創ってきたのかは僕にはあまり関心がない。ともかくも「やるなら、こんなことしかない」という追い詰められた位置での創作行為として受け止めるしかないが、それに納得するのだ。
●というのもこのような空間造形には、感性的な芸術の観念から見れば、一般的になぜか人間的な潤いはない。またそんなものが変に混入されていると、もうこの空間の明快な明るさが無くなってしまうだろうと思われる。その意味で構成空間をそれ以上深められないのだ。それが「こんなことしかない」といういささか残酷な言い方になってしまう。
建築の場合は、そこに人が住む、歩き回る、想いにふけるなどの加重される価値が期待されることによって、個体空間であっても、想定される人間的な価値感が膨らんでくる。もちろん、それを承知で表現していなければ意味がないし、それを承知で受け入れる発注者がいなければ始まらないが。ここが建築の持つ魅力になっているのだが、今度はそっちに行くと、この、ある意味での本質問題以前に、建築を技術として土木の側からしか育て来なかった国の姿勢と、効率を当然と考える資本主義経済活動に規制されてしまうのだ。
これらの作品は現在、東京都現代美術館江東区三好)で3月22日までの開催で展示されている。



そこから、それにしてもどこかで書いたが、この美術館はどうだ、という話に行こう。そのスケールといい、プランニングといい、使われた建設資材といい、1994年の竣工だからバブル崩壊後なのに、その成果に違いないと思いたいくらい。実際のところ、設計はバブル期に行われたのだろうか。
設計者の柳澤孝彦は、大学の先輩だからか、やっていることがかなりの程度で判る気がしてしまう、というのも気味が悪い。その分、自分がやれば同じような失敗(?)をするかもしれないという予感もつきまとう設計内容だ。歩かされ過ぎて空間が散漫になる、機能がばらばらで動線が複雑過ぎる、その分いろいろの空間形体が多すぎる、など。逆に大らかな空間という魅力はある。柳澤はこの後、東京オペラシティも設計している(1999)が、やはり何となく似ている。



菅の作品とされるものが屋外にもあるが、ここで見ていると、どこから美術館の空間なのかもわからなくなる。菅の作品はこの美術館の持つ感性と相性がいいのだ。
菅の無駄のない感性は、空間の美に見せられて建築の世界に入った建築家に近いものがある。そのことが僕を納得させる理由になっているのかもしれない。