「日本の家」展を見て(その3)

引き続き、こだわりの連載   
●23日に具体的な14項目を略記載で追加●    ●●部分、2か所追記あり10/24



どうも、この展覧会がよく判らない。国立近代美術館で開催中のことである。


何とかしようと、カタログに当るこの展覧会の冊子を紐解く。それだけ展覧会を見てからの違和感と共に、言いたいことがありそうなのだ。見覚えのある雑誌風なので、よく見たら新建築社の出版だった。
14項目にわたる説明記事(一部を除き塚本由晴氏)をどう読んでみても、自分の探っていることにピタッと来ない。仕方なしに、時間もないしと不明をそのままに読み進めていくと、奥に(後段に)藤岡洋保氏(東工大名誉教授)の「独立住宅に見る日本の近代」という記事があり、これならだいぶ判るとしばし安堵。更にまたその奥に保坂健二朗氏(国立近代美術館主任研究員)の「日本の戦後の住宅の系譜学について」という記事があった。
この保坂氏の記事を読んで初めてだいたいのことが判った。気になっていたのは、どうしてこのような構成になり、このような建築家たちを「出した」のかということだったが、構成の最初から最後までの流れを解説されて全体俯瞰を見ることが出来たことで、知りたいことがここにあったのだと得心したのだ。
事実保坂氏は、「塚本と私はワークショップを何度も行い1945年から2015年までの住宅75件を13の系譜に分けた」と述べている。


前置きをさておいて、ここでこの展覧会の構成について自分が感じた違和感を、保坂氏の論考をベースにサッと覚書きしてみよう。


1・ 作表(会場レイアウトに影響)に絡む問題:
カタログにもチラシにも「系譜のチャート」と題する図表が大きく出ているが、この作表に問題がありそう。横軸に年代、縦軸に設計に影響を与えた主題(時代認識を含むキーワード)で構成されていて、その中にゆるいフレームで14項目を囲っている。縦/横軸は以下のようになっている。

            1945〜      1970〜      1995〜     (2015)
様式
都市/家族
産業


塚本氏と保坂氏が考えた、この表に振り当てる14項目とは以下のようなものであり、誤解が生じるのを覚悟で、採用された代表例(作品または建築家名)を、イメージ創りのために1〜2点または1〜2人だけ補記しておくと、(アトリエ名、組織名などを除く)

  1. イントロダクション         (桂離宮
  2. 日本的なるもの          (丹下健三、生田勉)
  3. プロトタイプと大量生産      (黒川紀章、坂倉準三)
  4. 土のようなコンクリート      (吉阪隆正、東孝光
  5. 住宅は芸術である         (篠原一男
  6. 閉鎖から開放へ          (坂本一成伊東豊雄
  7. 遊戯性                (毛綱毅曠、相田武文)
  8. 感覚的な空間           (伊東豊雄妹島和世
  9. 町屋:街をつくる家         (安藤忠雄岸和郎
  10、すきまの再構築          (西沢立衛藤本壮介
  11.さまざまな軽さ           (広瀬鎌二、島田陽)
  12.脱都市経済             (石山修武宮本佳明
  13.新しい土着:暮らしのエコロジー乾久美子藤森照信)
  14.家族を批評する          (菊竹清訓、清家清)

  (以下の文章では <……> で紹介)



問題は縦軸の方で、保坂氏の説明と私の感じていること(用語への理解を含む)の違いは次のように思われる。様式、都市/家族、産業の順に語ってみよう。


様式(仮にA): 一般に思いつく用語の定義と同じでよさそうだ。それが歴史に現れるような大きなムーブメントでなく、社会と技術の変化に応じて対応していく表現への微妙な変化も含まれている。このことには違和感はない。


都市/家族(B): 保坂氏は、高度成長期までの激しい都市化に対して篠原一男の「住宅は芸術である」を持ち出す(5:住宅は芸術である)。それまでに「様式」化力に至らなかったプロトタイプ化(標準化)や、「日本性を再検証することの絶対的な優位性」も力を失っていった中で、「新しい建築家像を提出したのが篠原一男だった」という。そして、「(芸術である)というまるで公理のように断定的な言葉に象徴されるように、彼は建築家のモデルを、数学者か、思想家へと変えようとしたわけである(決して芸術家になろうとしたわけではないことには注意が必要だ)」という。
気になる違和感の中核はこの辺にありそう。「都市」という大枠を設定する場合に、建築家の抱く想定社会への敵対概念が個人の内面性に向っていくことで対峙するとしても、自分の立ち位置を確保するには良いとしても、それが「都市」に何らかの影響を与えるのだろうか。
はっきり言い切ったから「数学者のよう」だ、というのも変だし、「抽象的な空間を成立させるために」いろいろな仕掛けをしているという論法も、建築家を数学者(や思想家)らしく見せようとするからであろうか。方法はいいとしても、それが「都市」という枠組みに関わるのは、実際の都市ではなく理念上の都市を問うことであれば、「現実の都市や環境問題」枠には入らない、ということにならないか。
都市化への反動ということであれば、そこから「(高度成長期や高度情報化社会に)いわば反動的に生まれる傾向がある」として、<9:感覚的な空間><11:様々な軽さ>も「都市」枠に入れているのも気にかかる。確かに内発的な反応ではあろうが、現実の都市、まちとの調整や対話ではない、というわけだ。
全体として「都市/家族」という枠について保坂氏は、対立概念的な立場を優遇しているようにも読めるが、藤岡氏が最後に、「敷地の形状など、偶然の要素を手掛かりにしながら設計することも多い」と述べているように、都市の要素にある、その場の光や影やその向き、樹木の状態、見える景色、雨風雪、湿度などの季節変動などへの配慮もここに加えておく方がよかったのではないかと思われた。そうすれば<8:感覚的な空間>にある妹島和世の「梅林の家」とか、<10:隙間を再定義する>にある藤本壮介の「House NA」、<11:さまざまな軽さ>にある西沢立衛の「Garden & House」がこの辺(「都市/家族」)に繋がってきて見えやすかったのではなかったか。
●●また、伝統工法で美しく住み心地のいい「日本の住宅」を造ってきた建築家だってたくさん居ただろう。こういう所作を組み込んで行くためにも、迎合のように見えても、「都市/家族」の視点の複合化は必要なのではないだろうか。これらは色、形、質感にも関わり、当然、「様式」とも絡んでいく。●●


「産業」(C): これは戦後の技術革新による、建築素材や建設技術の進歩や量産化、住宅産業の主役化による生産システムの一般化がもたらす市場の変化が建築家に与えた影響を軸にしている。大枠の一つとしては異存がない。
知る人は少ないだろうが、2005年に個人で建設を始めてまだ施工中という「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル:岡啓輔設計施工)」なども(<12:脱市況経済>)組み込んでいて、反体制的な立場への鼓舞を承知していれば、この辺は面白い。
石山修武の「秋葉原感覚で住宅を考える」(1984)についても「産業」枠で述べていて、<12:脱市場経済>として「開拓者の家」(例のコルゲートパイプの家)もここに入れているが、「世田谷村(自邸)」は<14:家族を批評する>、すなわち「都市/家族」に加えている。この辺りが「都市」「家族」「産業」の交錯する場所で、分けてしまうことの難しさが表れている処だろう。
作表全体としては、ABCは年代を追うごとにオーバーラップしてくるので、平行線で分けて13項目をそこに振り分けるのも問題がありそう。更にABCの順をBAC,ACBとした場合も検討の余地が有りそう。以上からチャートの混乱が生じていると思う。


2・用語の適切さに問題:
最後の項目に<14:家族を批評する>というのがあるためか、「家族」枠を「都市」に加えているが、これは「都市とは、血縁関係にとらわれない家族のあり方や、新しいワークスタイルを求める人達の集まる空間でもある」という辺りで入れているのだろう。その限りでは問題を感じないが、「家族を批評する」という言い方はどうだろう。素人は「何で家族を批評するのか?」と思ってはしまわないか。用語の問題だがこれは「家族のあり方を考える」というような言い方にすべきでは?
そういえば「家族」だけでなく「都市」も、前述の通り塚本・保坂流の匂いが有るので、最初からチャート入りには説明が必要のよう。その他、各章の<土のようなコンクリート><閉鎖から解放へ><様々な軽さ><感覚的な空間>などの言葉も「?」と思わせるところがある。


3・選定作品の適切さ:
以上のチャートで区分してのことだろうが、それでもなぜこの作品が(ここに)?が、かなりある。特に近年になるほど、ほかにもっといい作品があるのに、という気なる。これを言ったら実も蓋もないと言われそうだが、塚本氏、藤岡氏が東京工業大であることから、その系での選択だという知人がいたことを付記しておく。


4・会場レイアウト:
更に判ったことは展覧会場の陳列順がカタログの番号順と大幅に違い、「系譜で見る」ことがほとんど不可能だということ。
展覧会場のレイアウトが後半の大部屋に入って、カタログで説明しているような流れが乱れて混然としている。出口の方に歴史の流れから「都市/家族」の分野があるのでなく、奥の方になっているとか(チラシの会場レイアウト説明も、章にある番号もカタログ順とは大きく違う)。


5・編集上の視点:
このブログの(2)でも述べたが(今、どうなっているんだろう?)、現在、2017年の視点から見た歴史と観察点についての会場構成(カタログ編集)上の主張がもっとあってよかったような気がする。
それは言うまでもなく、時代を経ても「住宅の基本は住み手の快適さにある」ことであり、そこからのあらゆる方向へのチャレンジや逸脱、その効果が計測される必要があるからだ。まさしく、「今、どうなっているんだろう?」という視点からの考察である。


6.カタログの見にくさ:
会場の写真や模型とカタログ内容の整合性は、調べてみるほど酔狂な立場にないが、後で見ているカタログの写真は、必ずしも見たいアングルでなかったり、むしろつまらないアングルだったりして魅力に乏しいものがある。また画面の大小もおかしいものがある。加えて図面が無かったり、必要階でなかったり。建築誌ならいいが一般にも判って貰いたいなら、図面上のどの位置からの撮影かなどのアドバイスも欲しかった。
細かいことだが、同じように、最後の2人の論評はどちらも文字量が多く、本カタログ全体も極めて細く小さい文字で印刷されていてとても読みにくい(二人の記事のフォントまで違う)。グラフィック・デザイン的な配慮のことかも。


以上、期待が大きい分、苦情っぽい内容になったことが理解いただけたら幸いである。
●●ここで振り返ってみて、何か言いたいことが拡散してしまった気持ちもしている。チャート分類したことで判ったという気持ちになったわけだが、選ばれた作品の13項目への貼り付けは当然、「様式」「都市/家族」「産業」の分類には応じきれないオーバーラップがある。「家」は「言葉(で分類出来るようなもの)ではない」からだ。それを承知で(だろうが)敢えて分けたことには共感するが、そうなると、イメージ上の評価の重みによって評者の個人差があることは明らかだ。実はチャートの分類より、そこに選ばれた作品の適切さに違和感があった、ということの追確認が本当の言いたいことだった。又一旦、言葉を選ぶと大きくそれに縛られるという恐ろしさも感じられる。ともかくも「3・選定作品の適切さ」と紹介の仕方(写真、図面などを軸に)に関わることで、カタログの出来や、会場構成などは末節のことである。●●
それにしても社会的に相手にされそうもない「個人の住居」レベルでの、ここまでの大がかりな展覧会の企画とその準備への努力には脱帽する。今後、これに刺激を受けて、少しづつ違う視点の企画が浮上することを期待したい。








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