地域アートをどう扱うのか

地域アートをどう扱うのか


僕は、クオリティを核に個人が創造する、というのが原点と思っている。
ところが、現代アート地域活性化に使われている現状はどうか。
「十分なクオリティが審判されないままに”素朴”なプロジェクト型の作品が増えていることから、芸術の地殻変動を指摘する」 という話が出てくる(建築評論家の五十嵐太郎氏が書籍紹介で、藤田直哉氏編著の「地域アート 美学/制度/日本」の考えを伝える:朝日新聞16/5/22)
地域の生き残り政策とモダンアートの生き残り策がドッキングした感じだ。


6月8日追記
この問題は一言では答えられない。
現在、執筆中の原稿には、この問題についての背景や自分の考え方を周辺から固める形で記述した。
藤田氏は地域アートの制作者にある考え方や行動を、芸術の本懐からすると「ゾンビ」かもしれないという考え方を紹介して話題になっているらしい。
視覚的な表現行為、しかも伝統芸術などの評価基準に合わない行為の判定は、誰にでもできるというわけではない。というよりむしろ誰にもできないということで、自己責任から行動しているのが現状だろう。
そこには「現代アートの解体という現実がある」と言うしかないのではないか。
一方、行政管理者側については、何が「良い」と判断しているのか、「場」に対する感性はどう扱っているのか、という疑問が生じてくる。
僕が書いていることでは、やはり歴史認識も踏まえた本当の「目利き」が必要ではないか、ということである。