毛利悠子の「グレイスカイズ」展

楽しみにしていた。
モダン・アートに感心することが少ないのに、これは面白そう、と。
「カジュアルさと繊細な詩が同居するような偶発性、即興性に満ちた空間に、不思議な心地よさと開放感を味わう」と聞けば、関心を持たないわけには行かない。
考え方に共感があり、僕のことも紹介してくれたことのある朝日新聞編集委員の大西若人さんの紹介とあらば。 記事タイトルは「偶発性に満ちた心地よさ」(去る1月10日頃の夕刊記事か)。
毛利悠子さんは知らなかったが、まだ37才の若さで、日産アートアワードのグランプリ(2015)、芸術選奨文部科学大臣新人賞(2017)を受賞している。


藤沢市アートスペースで開催中とのことで、「今、もっとも注目されるアーティストの一人」だそうだ。で、見てきた(18日)。



この思い付きで撮った会場写真を改めて見て、あることに気が付いた。
自然を軽視しない立場からだろうが、この会場は外部向きの壁がテラス窓だ。このためこの写真では主題がなんだか判らない。そういえば、紙評の写真も小さいし、隣のカーテン囲いの部屋の写真になっていた。案内チラシにある作品写真も見てみると、以前のどこかの会場でのもので全面白壁囲いである。
そうか、それで僕は気が散ったのか? いや、環境としての作品と部屋の雰囲気は悪くはなかった。これでも辻堂駅北口のバカーンとした広さも出ているし(苦笑)。


実は作品にそれほど感心しなかったのだ。
この部屋の展示は「モレモレ:ヴァリエーションズ」と称し、モレは漏れで、「駅構内などでよく見かける、水漏れをありあわせのの材料で絶妙に処理する姿から発送したシリーズで、今回は会場に水漏れを設定」した。
それをミニ電動ポンプと乳白の細いビニールパイプを使って屋根材の上を流したり、ミニ・ショベルを利用したししおどしなどを作っている。
それがこの写真では良く見えないが、実際のモノも見ていても、もうどこかで誰かがやったことの繰り返しだと思ってしまったのだ。


でも、彼女の努力を軽く考えるのはよそう。
モダーンアートそのものが、限界行動そのものになっている。
自然に勝るものは無い。といって、行く雲の流れや、黄金の日没、定まらぬ大海原をぼーっと眺めているだけでは、近代史が規定した、創造することによって生きる意味を獲得した人間、に当てはまらなくなる。
彼女はまだ、人生の虚無の深さなどに突き当たっていないのだろう。いろいろな賞を取れば、この道でいいんだという気にもなるだろう。
それは、そよぎやゆらぎ 、あるいは自然が発する偶発的な音色といった自然の働きへの共感であり、それらへの代理表現による献身である。それが悪いことは何もない。ただ僕には、それが芸術として何の機能をもっているのか、分からないのだ。それは、デザインや建築を通して、ある機能を求めてきたメンタルのせいだろうか?


まあ、若い女性の勇気を挫くような言い掛かりはよそう。
これがモダーン・アートの現実である。素直に褒めてあげるのが高齢者の役割かもしれない。
なお大西氏の記事では、彼女のマルセル・デュシャンとの関りについての記述もあったが、後からの検討要素である。







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