神田先生の「読後感」

これで、いい「読後感」=書評になった!


この前の10日の本ブログに記載してあるように、先週発売の自著「クリエイティブ〔アーツ」コア」についての神田先生の「読後感」を頂いて旅行に出たが、17日にそれへの「感想コメント」を差し上げた。
心ならずも、これを見て頂いた先生から、合わせて公開してもよいとのお返事を頂いたので、自分に降りかかる不勉強の暴露を覚悟で以下に公開します。
その後で、このやり取り後の先生の想いを自分なりに補足します。
少々長いですが、「本書」を読みたくなるような(笑)内容です(!?)。 以下も、本も、ぜひ読んでください。



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(神田順先生宛の頭書き)
以下の先生の「読後感」は、この本で大倉が提案する議論に、全部真正面から取り上げて論じて頂いています。
そこに追記する形で、大倉の感想コメントを●〜●で挿入させて頂きました。また、その内容が先生のお考えに沿わないことがあるかもしれません。行き返りで、同じようなお詫びを申し上げることになるかも知れないことをお許しください。




                             「クリエイティブ[アーツ]コア」読後感


著者の大倉冨美雄氏より、発行前にお送りいただいたのに、少し時間がかかってしまった。
いきなりのタイトルから、言葉の挑戦が感じられるが、読んで行くと、けっこう読みやすく感じたのは、すでに何度か意見を交わしたりもしていて、認識を共感するところが多いからであろう。個人の創意が生かされにくい社会になってしまっていることを憂う気持ちが、ほとばしっている。「個人が楽しく発想する条件が揃わないでどこから新しいことが生まれるのか」(p.50)は、全体を通しての筆者の叫びである。そして、その原因は「あらゆる社会の規制がモノと生産を軸にしてかたちづくられてきた」(p.54)ところにある。
そんな中で、問題提起のあとに、32ページにわたって、著者の作品群が視覚に訴えて表現される。これは、編集のねらいということでもあるのだろう。やりたいことをクリエイティブに社会に提供してきた自負でもあろう。規制や窮屈な社会構造の中でも、ここまでできるということは、未来に向けても十分な可能性を示していると、受け取ってよいのであろうか。
●自分がいうのも何ですが、普通にはここまではほとんどできないと思います。この種の業態を渡り歩くことは、今の日本ではほとんど気狂い沙汰か、才能があって家財がとても豊かでもなければ(私のことではありません)出来ません。悩みながらやってしまった以上、この可能性を職業的にも未来のために正当化するのが使命と思ってやっていることです。●


こまかいところではあるが「木造住宅は災害に弱く」(p.128)の言い方は、木造住宅をひとくくりにして、誤解を招きかねない。というか、少なくとも地震に強い貫構造の伝統木造の存在が、クリエイティブな職人により残されていることは、これからの1つの可能性として数え上げておくべきものと思うからだ。もはや希少種になっている大工棟梁を、自主決定出来る専門家集団として社会に認めさせる必要があろう。
●構造に関わる専門家としての視点が大きく現れた部分だと思います。仰る通り貫(ぬき)構造や大工棟梁への評価確認は言うべくもないと思われ、それらの視点を維持しようとすれば私の言い方は誤解を招くと思い、その付言が抜けていたと反省しますが、ここでは、歴史の中で大火や水害に見舞われ、全失してきた底辺庶民の民家を意識してきました。●


「発注者が判定権を持つのでなく、・・・クリエイティブ[アーツ]の核にいる専門家の判断を優先すべき」(p.129)というが、これも、確かにそうではあるが、専門家万能ということの限界も見すえる必要があるし、発注者の見識なくしては、質のよいものは、生まれない。専門家以前に、発注者をどうするかという問題が大きいし、より本質的な課題である。
●これも私の言葉が滑っています。「クリエイティブ[アーツ]」を核にしようとすれば、そのぐらいの強意用法、あるいは覚悟が必要と思ったからです。この種の専門家が万能のはずはなく、むしろあまりにも軽視されている現状からすれば、相当高位の判断優先権を与えるべきということです。発注者については、どう規定するかにもよりますが、発注者を大切にし、その見識を評価することは現状からしても当然ですが、建前論はさておいて、「衆愚権力」とまでは言いませんが、反対にむしろ現状は変に優遇され過ぎていると感じている点が、先生と私の価値観の差になっているのかもしれません。発注者主体か、専門家主体かの議論はイタチごっこのように思うのです。ただ発注者の教化やルール作りは必須の課題ですが、国民の感性や合意形成への体質に踏み込んで論じなければならないと思います。それが私の言う日本人の歴史認識の再確認です。●


その意味も含めて、すぐその後段で、「建築基本法」の制定に向けての「地殻活動も活発化」(p.130)と、我々の活動を評価いただいているのは、有り難い限りである (大倉下記注1)。また脚注において昨年11月の討論にも触れていただいている。まさに、建築基本法は、行政や社会に、個別性でなく総合性を認知させる役割を担うもので、クリエイティブ[アーツ]コアの存在を擁護するルールである。
アートと言っても、建築領域では、基本法で社会に問うという行き方ができるとして、いわゆる芸術領域や、プロダクト・デザインの領域では、未来に向けてどのような方法論が可能なのであろうか?手作りアートの世界が、大量生産の新製品よりも、社会が受け入れやすいためのルール作りを考えると良いかもしれない。
●すでに大企業体制が出来上がっていて更に格差が進んでいる現状では、大量でなくても、ある品質を保持した生産力では、手作り仕事はかなわないと思っています。つまり個人力でできるイノベーションやシェアエコノミーの範囲で、やっと「社会が受け入れやすい」商品やサービスが生まれる条件となるように思います(クラフト商品は別です)。ただ、私自身が大きく現在の企業体制に依存してきたこともあり、先生の仰るような「ルール作り」が本当に可能なら逆転の発想であり、真剣に議論して納得する必要があると感じます。●


「感性価値の社会化」は、筆者の結論として言いたいところであるのは、よくわかる。しかし、国のシステムを変えることと言いながらも、1つには新しく省の提案(p.136)があるが、果たして、それが地域行政と個人をサポートするようになるのか疑問である。要は、国をあてにせずに、地域行政が個人を評価し、サポートする体制をどう作るかではないか。また、もう1つの「専門家集団が組織力を発揮し、行政の代行が」というが、行政の中に専門性が生かされていない制度になっていないところに問題があるので、代行するのではなく、専門家集団や個人の提案を行政が、どのようにして活用できる仕組みを考えるかということではないか。
●国のシステムを変えるということと、地域行政に期待する体制づくりとは一応別に考えています。国のシステムを変えることは、建築基本法の例で思えば、失礼ながら非常に難しいと思っていて、地方行政から改革していくというのは正論だと思います。なぜ軽々しく国のシステムを、と言及したかと言えば、文中に「当面この国での上から変える効果を認める格好だ」(同136p)と記したように、出来なくても、そういうことがある、という広報や認識の拡大が社会化のために必要ということと、事実、システムであれルールであれ、「上からの効果」(あるいはそれを装ったプレゼも可。それに反対して問題を社会化、顕在化することも含めて)を認めようという考えからです。建築基本法案も同じ観点からのろしを上げたのだと理解してきました。また、専門家集団や個人の提案を行政が活かす仕組みを考えるということも適切だとは思いますが、今度の豊洲への移転問題でも明らかになったように、都議会やその周辺の伏魔殿ぶりを見れば、正論であっても行政がどこまで実体として政策化に応じるかは難しい問題だと思います(自民から軽視された都知事の登場によって、より明確に表沙汰になったことは明らかです)。実はこのことは、最近の建築基本法準備会の活動でも微妙に差異感を感じているところで、私が行政もあまり信用していなことの現れかもしれません。(とは言え例えば、最近秘めやかに動き始めている、東京三会建築会議レガシー委員会の「東京構想POST 2020」活動などを見れば、建築家の側からやれるかもしれないという気にはさせてくれますが)●


戦後、アメリカ型の市場経済とモノ・カネの世界を日本流に、さらに効率的に展開するのにあたって、社会制度を試行錯誤で、経済活性化最優先社会を招来し、今日まで来た。持続可能性が叫ばれ、縮小社会になって、一大転換期であるはずなのに、社会制度も変えようとしなければ、既得権の温存に異を唱える声が大きくならない。本書が、少なくとも、何かを変えようという人たちの拠り所になることを期待する。
●まったく同感であり、その観点からのエールに感謝します。●


イタリア滞在経験のある著者に、イタリアを外からしか眺めていない人間が、「イタリアを見習え」というのも説得力がないと言われるかもしれないが、国を頼りにしないで、地方のパワーをどう引き出すかが、[アーツ]を業とするものにとっての出発点ではないか。
●前述の「行政を活かす」という言い方でなく、「地方のパワーを活かす」ということであるなら、異論はありません。ただ、やはりイタリアとなると、都市国家的な出自が示すように「元から国を頼りにしていない」国民性なので、日本と比較することは簡単ではありません。歴史的に地方・地域のパワー中心で国を動かしてきているのに対して、日本人は明治維新どころか江戸時代からでも、その意欲や慣習が消されてきたと言えると思います。ネグリアガンベンは日本人のことは知らないでしょう (大倉下記注2)。本書の主要な論点はその個人の主体性の自覚の促しにあります。●

                                         (神田 順 2016年10月9日)
                                         (追記コメント:大倉冨美雄 同年10月16日)



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後記:
この往復意見交換につき、「大変、気持ちのよいやり取りになっている」と評価頂いたが、その分、議論を深め「問題が本質に近づくほどに、表現や提案が難しくなる」と、神田先生は漏らされた。
行政が行為の忖度(そんたく)について権限を持っている以上、無視出来ない。それを変えられるのが「法」であるが、法は立法府を説得しなければ変えられない、というところに建築基本法のスタンスがある、とも仰る。さらに、「しかし、建築基本法を、どんなに素晴らしい条文で作っても、その先の、建築基準法行政を変えること、(つまりは)自治体の条例で良いものが作られることがなくては、意味をなさないことも、確かです」とも。
法や条例の制定は、起案の提示から始まって、国会議員、地方議会議員の必要定数の合意が必要である。その議員を選んでいるのが国民であり、地域住民だ。
議員の動態については、これも過日の本ブログで紹介したように(10月5日:『「その上のこと」でしかないのかも』参照)、現状では、とても文化的認識、つまりその方面の民度が低いと感じざるを得ない(そこでイタリアを出すが、彼らは「行政体としての国を信じていない民度」なのに対して、日本人は「偏向した政治家が動かす国を信じようとする民度」。つまり幼稚だということだ)。
「議員のための文化講座」から始めなければならないう状態だが、建築家もできるだけ組織を連ねて議員を呼び込む活動を活発化させるしかない。


(注1):「建築基本法」とは現状の建築基準法の上を行く全体法の提案で、明らかに現行法の限界を理解して想定されたもの。
(注2):ネグリアガンベンは我々の間で話題になっているイタリアの哲学者たち。後から、ネグりは「日本で公演もしており、歴代の首相の評価などもしていて、日本のことはよく知っているようです」とコメントを頂いた。










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