「100万回だってよみがえる」

この前の17日に紹介した友人川村君から、また次のようなメールが。


「大倉さん
前回の文章、褒めてもらえたので調子にのって、もう一つ読んでほしいと添付させてください。
友人だった佐野洋子さんのお別れ会が5年前にあり、彼女の息子さんから追悼文を読むように依頼されました。
大腸癌手術から日が浅く出席もままならず、娘に代読してもらいました。
河出書房新社から、KAWADE夢ムック 佐野洋子追悼総特集「100万回だってよみがえる」という出版物に転載されました。」



佐野洋子のことは、特にエッセイを家内がファンなので知っていた。とても面白いとのこと。
僕がミラノに居た時代のことか、紹介されたことはない。
川村君の彼女との出会いから別れの話は、人事とは言え、青春のほろ苦さと人生のむなしさが伝わってきて、もの悲しい気持ちになる。川村君の佐野洋子への愛が感じられる。
5年前のことだが、これも部分引用で少し紹介しよう。


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佐野洋子さんの思い出   川村康一


浪人時代のこと
 ボクは昭和13年生まれで、洋子さんとは同じ歳です。初めての出会いは今から53年も昔、19歳のときで、美術学校の受験に失敗して通い出した予備校でした。それ以前から付き合いの続いている友人はいないので、予備校での友人4人は現在まで続く最も古い友人で、洋子さんはそのうちの一人でした。
 ボクの高校は男子校でしたから、洋子さんとの出会いは新鮮で印象的なもので、直ぐに心引かれる存在になりました。けれど、知り合った当初は洋子さんと接する機会はあまりありませんでした。というのは、洋子さんの周りにはいつも何人かの一流都立高校出身の男子がいて、彼らは洋子さんと実に気軽に話しをしており、三流私立高出身だったボクはデッサンの技量だけは負けない自信はあったものの、彼らに強い引け目を感じていたからです。
 さらに、洋子さんは細身で足が長く、わずかでしたがボクより身長がありました。その頃ボクは「自分よりも背の高い女性が自分に関心を持つはずはない」と信じ込んでいたので、見込みはないと洋子さんに対する気持を押さえ込んでいるところもあったのです。
 また自分の中にふつふつとあった異性に対する性的な関心を、下品なものだと嫌悪していたところもあり、洋子さんをそのような目で見ることもまったくしませんでした。洋子さんへの気持ちは、本当にプラトニックなものだったのです。ずいぶん後になって、洋子さんにその頃の気持を伝えると、「アンタ、ずいぶんおくてだったんだ。もったいなかったね!」と言われてしまいましたが。
 そんなある日、授業の帰りに一緒に〈月光荘〉にスケッチブックを買いに行かないかと洋子さんに誘われました。〈月光荘〉は有楽町の駅近くの老舗の画材屋さんで、ここのオリジナルスケッチブックを持ち歩くことは、当時の画学生にとってステータスでした。
 その帰り道、突然、洋子さんが映画を観ようと言うのです。現在は有楽町マリオンのところに、「丸の内ピカデリー劇場」という巨大スクリーンを持つ映画館ができて評判になっていたときのこと。こけら落としに超大作「80日間世界一周」を上映していて、このタイトルデザインを著名なグラフィックデザイナーのソール・バスが担当したことで、デザイナー志望の受験生の間でも話題になっていました。
「観るならこれだね。アンタいくらお金残ってる? アタシはこれだけ」と、お互いのバラ銭を彼女の手の平の上に広げ映画館の前の路上で数えました。忘れもしませんがこの時のロードショウ入場料金は170円で、二人分の340円と帰りの電車賃が残ればよかったのです。あの頃映画を観るといえば、もっぱら50円劇場でしたから、なんとかお金が足りて洋子さんと共にロードショウを観たことは、有頂天になる出来事でした。
 帰りは喫茶店に入る余裕などあるわけはなく、彼女の下宿、牛込柳町のおばさんの家に行こうと誘われ、おばさんも一緒に夕食をいただきながら、えんえんと話しをしました。その後のデイトは展覧会に数回行った程度でしたが、帰りは同じく下宿にお邪魔するコース。


 洋子さんはいつもぺたんこの靴を履いていましたが、ボクの身長を気にかけてくれていたなどということがあるわけはなく、貧しい時代、あの靴しか持っていなかったのは確かだったと思います。当時「麗しのサブリナ」というオードリー・ヘップバーン主演の映画で、彼女の履くぺたんこの靴がサブリナシューズと呼ばれ話題になっていました。何年も後、何かの話しの折に、「洋子さんは若い頃、ヘップバーンに似た感じがあったよな」と伝えたところ、「何をおべんちゃら言ってんの」と一笑に付されるかと思いきや、「本当!? 本当!? 本当にそう思ったの!」と、膝を乗り出し大喜びしてくれました。



結婚、 そしてその後
 それから何年か後、洋子さんから「結婚することになった」と、久しぶりに連絡をもらいました。
 そして、その数年後にはボクも家庭を持ち、今度はお互いの家族ぐるみの行き来が始まりました。 


――その後、佐野洋子は離婚。子供たちの繋がりなどの交際や断絶を経て、病に倒れた彼女を見舞うことになる――
 

洋子さんと話したたくさんのこと
 10年以上前に、洋子さんの軽井沢の家をお互いの友人と共に、たまたま訪ねたことがありました。
2泊3日の滞在中は周囲の美しい自然の中へ出かけることもなく、お話マラソンとなりましたが、そのとき以来の再会を洋子さんはとても喜んでくれました。
 彼女の病状は希望の持てない方向へ進んでいると聞いてはいました。ところが、カウチに座り、ときに横になるという状態にもかかわらず、4時間以上もしゃべりまくり、終電に乗り遅れそうになる始末。「いいじゃん。泊まってけば!」の声を振り切って帰ってきたほどでした。
 それ以降は1〜2ヶ月ごとにお見舞いに行きました。徐々に辛くなっていく感じは見えましたが、昨年の夏ぐらいまでは、時に友人や洋子さんの妹さんも交えて見舞いとは言いがたい長時間をベッドの脇で共に過ごしました。
 会話の内容は絵本のこと、エッセイのことから、人間関係、政治に経済、宗教とその先にある戦争まで。とにかく話題に事欠くことはありませんでした。
印象的だったのは、絵本を書き出した動機を尋ねたときのこと。絵本作家と呼ばれる人たちが言う、「子供の純真で無垢な魂にふれ、その情操を高める喜び」などという思いはかけらもなく、ただ、ただ、自分の持っている能力からどのようにして、お金を作り出せるかを思案した結果だと言ったのです。洋子さんは決して自分をごまかすことのない人でしたから、この言葉に嘘があるとは思えませんでした。
 

 洋子さんはとにかく昔からよく本を読む人だったので、ある時、現在のように本があふれかえる中で読書の習慣がない人が何を読んだらいいかと尋ねたことがありました。すると即座に「まず夏目漱石を読むべきだね」と言いました。漱石のロンドン滞在の鬱屈した心情と洋子さんのベルリンでの想いと、どこか重なるところがあったのだと感じています。これはエッセイを読んでもすぐわかることですが、性格とものの考え方からとても正直な人でした。インチキなもの、見てくれがよく実のないものを見抜く眼力が鋭く、それらに対する辛辣な物言いは痛快でした。
 
 数ヶ月前のお見舞いの折、彼女は、「ちまたに流れる〈終末論〉に組するつもりはないけれど、そんなに遠からず人類の時代は終わるだろう」と言いました。ボクも最近触れる日本のみならず、むしろ世界で起るさまざまな事柄を見るにつけても、やはりそんな予感を持っているので印象に残る一言でした。さすが、『100万回生きたねこ』の作者、洋子さんの洞察と直感は当を得たものではないかと感じてしまいます。


 この10月半ば過ぎ、ボクは大腸癌の手術を受けるため、三週間の病院生活が避けられないこととなり、入院直前にこれが最後の別れになるとの思いを胸に、洋子さんに会いに行きました。手を握り話しかけると、うなずいて言葉を返してくれようとするのですが、唇がかすかに動く程度で声にはなりませんでした。でも、とても穏やかな表情を向けてくれ、ボクのこと、ボクが言ったことはわかってくれたと確信出来ました。
部屋を出るときもこちらをしっかり見て、手をふってくれました。そして程なくして彼女が亡くなったことを横浜の病院のベッドの中で新聞で知りました。覚悟はしていたものの寂しい限りです。
 どうぞ洋子さん、天国でゆっくりお眠りください、と言うべきところですが、天国へ行ったことは間違いないとしても、あの彼女がゆっくりお休みになっているとは、とうてい思えません。
ボクもそちらへ行った時に聞かせてほしいので、眠っている人たちを叩き起こしてでも面白い話しを仕込んでおいてください。
 とりあえず、さようなら。
 2012年12月7日





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