もはや過ぎ去ったよき時代

モダニスト建築家、宮脇檀の活躍した時代と今
●最後に、ミニ付記あり。07/26


こんなにも熱い想い出の時を過ごすとは。
今の建築家協会は霞んできた。
あの、30年前の新日本建築家協会の設立時までの熱気は何だったのだろうか。
今になってみると、丹下健三の意を受けて拡大組織を目指したあの時に、真っ向から反対した宮脇檀(まゆみ)らの考えは正しかったのかもしれない。
その宮脇檀のスケッチ図(専門用語でドローイング)展が開かれていて、今日は当時のスタッフが思い出を語るというイベントがあったが、神宮前の建築家クラブは立錐の余地ももないほどの参加者で埋め尽くされた。
その多くは「宮脇の時代」を知るロートル達だが、これぞ手描き時代の建築家と言えそうな人が多く、あの時代への想いを彷彿とさせた。
「そうだよな。あなた達と組んでやっていればいい建築家協会が出来たのに」と言いたくなるようなシンパシーの輪ができていたようにさえ思うが、その一方、あのままでは(つまりこのイメージの輪の中では)今の建築産業界に在ってはとても太刀打ち出来ないことになっていただろう(こっちでも駄目だっただろう)という気にもさせた。
当然、会場に居たのは宮脇に縁があったり、触発されたりして建築に命を懸けてきた者ばかり。あるいは誰かに教え込まれたのか若い女性もパラパラと。
あれからの30年の巨大な社会変化に建築家職能は対応仕切れなかった、というのが僕の思いだ。


「思いの建築をやっていれば、世界史に定立する作家になりうる」
これが宮脇までの時代にあった疑う余地もない想いだった。そしてその想いの再現に、今に至るまで建築家像としての夢を抱き続ける胸苦しさが会場から伝わってくる。
あの時までは建築家が「作家」として疑われなかった時代であり、建築家自身もそれを疑わなかった時代なのだ。
宮脇は本当にいい時代に生きていた。
(後述)24:00 1620


宮脇を論ずることでは、同業者間でアトリエ系と呼ばれる個人設計事務所の盛衰と、そこにあった問題、その後に持ち越された課題を一挙に扱うことが出来ると思う。
まず仕事だが、その量が半端でない。個人住宅・別荘設計/監理は最盛期(1979)には13件/年、戸建て住宅地(環境計画と集合する戸建て住宅)では11件/年(1989)。幸いにもか、両者がぶつかることなく、1980年を境に前が住宅、その後が住宅地と大区分が出来る。35年間に渡る住宅設計数が、表により各戸が1年以内に完成という単位で約120件以上。同じような区分で住宅地設計が約90件。それに時々、一般建築や共同住宅団地の設計が入る。
なぜこんなにたくさんの住宅や住宅地を設計したのか。来るものは拒まずというより、仕事があるうちにやってしまおうという、追い詰められた気持ちが宮脇の内にあったのではないかという気がする。
住宅の設計は簡単ではない。これを13件こなした年でみると新人2人を加えて10人でこなしている。住宅地設計で最盛だった年で13人ほど。これも新人ぽいのが3人ほど。そのうち数名は事務系だろう。CADもない時代にこれだけの図面を描き、現場監理をするのは気が遠くなる。特に宮脇自身は統括者としての目配り、気配りを怠れなかっただろうから、病気になるのも仕方がないとしか思えない。


実はこれ以上書くのに難渋していいる。
というのは、所員でもないし、宮脇の研究家でもないのに、宮脇について言いたいこと、言えることがありすぎるのだ(と勝手に思っているのだが)。その一方で、それは判った気になっている僕自身の私情で、本当にそうなのかどうなのか検証したものではない。でも検証して書くのなら、それは学術研究の分野で建築史専門の大学教授らの仕事だろうし時間も取られる。ここで言う必要はない。どっちつかずでいるなら、何時までたっても書いていけない。
では私情でいいなら、どうしてそんなに書けることがあるのだろう。
誰にでもあるのだろうが、ある人の仕事や生き様について、ちょっと知っただけで一読百解という気になる場合があるのではないだろうか。そんな例のようにも感じている。


建築に関心あるも、どう勉強していいか判らない頃に、確かYMCAでの建築研修があり、それに参加したら講師が若い宮脇檀だった。研修の終わりに課題で、意図的に三角形の住宅を出したら、彼が関心を示し、「三角は難しいんだよなー」と言ってくれたことがあった。それは直感的によく判って、以後、「ふーん、そう考えればいいんだ」と思い込んだのが始まりだった。
その後、気に入った「松川ボックス」などで、ますます「こうやればいいんだ」と理解して、宮脇プランにのめり込んだ時期があった。
もう一つ、体質的に判ると感じていることが、共に東京芸大卒ということ。最近の「最後の秘境、東京芸大」という本が出て話題になったように非常に特殊な大学で、そこの空気を吸っていることが何か共有点を生み出しているのかも、とも考えられる(参考:本ブログ2016/11/17「『最後の秘境』という現実」)。
住空間を「面白いもの」にするのには、宮脇のコメントや実設計が大いに参考になった。彼は空間を知り、自由に操ることが出来、しかもそれを手先で気軽に表現できた。それが今回の「ドローイング展」で嫌というほど見せつけてくれた。つまり本当の空間設計のプロである。これを外から見ていて、若気でいい気なものだが、「まったく俺と同じようだな」という気持ちになってきたのだった。ただ、当時やたらとチヤホヤされている上に、本人がうれしそうにそれに乗るのが見えて嫌だった。それが近づかなかった理由かな、と思う。
彼とお身内、それに優秀なスタッフの皆様には申し訳ないが、あえて品位の欠落を覚悟で本題に関係のない小さい私事を暴露すれば、僕の結婚式に彼は来てくれたが祝儀を出さなかった。彼のことを知らない家内の両親が「社会常識を知らない人」と言い、彼にお礼を言うタイミングを失ったのだ。彼からすれば、「これだけ有名人の俺を呼ぶ以上、祝儀はいらないだろう。俺を紹介して、一言、言わせてくれるだろうな」 という気だったのかもしれない。それはいかにも彼らしく、個人的にはおかしいこととは思わず、僕との関係も示しているが、一般に繋がる問題も秘めている。身内に説明はしたが、このために会いに行こうとしているうちに時が過ぎ、訃報を知ることになった。
(後述)07/23 19:45 1750


こうした私情を交えた話を公にするのは、相手が亡くならていることも考えれば、尚更後味が良くない。あえて記したのは、僕の宮脇檀に対する不思議な気持ちの一部でも伝えて、以後の話がたとえ間違いでも、作り話でも(そんな気はないが)それなりに、まじに受けて貰えるのではないかと思うからだ。


ここからは宮脇の仕事についてのコメントだが、記述に時間が取られる。
脱構築」(デコンストラクション)から「記号論」の動きの中で、原弘司を意識し触発されたと言われる宮脇は、「ボックス」としての考え方が構造になっていった。そしてそれが「混構造」になった…というような話は、会場でも司会(市原出氏)や前期のリーダー役だった椎名英三氏とのやり取りでもあったが、その流れは作品内容でよくわかる。すでに述べた通り、設計者中心の集りだからこのような設計理論の議論は当然だが、ここで書けば設計理論整理になり、これも学術研究的だ。
1980年を境に、住宅地設計がメインになっていく経過や理由も同様。特に、「作品」があまり知られていない後期に活躍した所員の二瓶正史氏とは、一緒に中国へ建築視察に行ったこともあり、「コモンで街をつくる」(宮脇檀建築研究室編:丸善プラネット刊)も頂いていて、ある程度予備知識は持っていた。
宮脇は、戸建てで見せた造形感覚をそのまま住宅地設計で見せていいのかは悩んだようで、機能は最新のものを考えるが、景観については「まちなみ屋」と言われてもいいという考えに落ち着いたようだ。それが現在の、目立たないが住みやすい住環境を形成している。
境期(1983)にあった「出石(いずし)町立伊藤美術館」の設計は、ちょうど地域環境と戸建てとの両方に関わる重要な契機だったのだろう。担当された吉松眞津美氏から解説があった。
この辺の流れはいわば「ポジネガが逆転」と言われたように、前期の「ボックス」に見たような形態空間優先意識から、環境と住みやすさ優先に移っていった経過を示している。
これを各作品事例で示し比較していくことも面白く、会場でのスライドの話題もこのような話になっていたのは想像していただけるだろうが、やはりこのブログではこの辺で止めておくべきだろう。


最後に簡単に、始めの方に記した「同業者間でアトリエ系と呼ばれる個人設計事務所の盛衰(1)と、そこにあった問題(2)、その後に持ち越された課題(3)」に触れたい。
(1)すでに述べたように、宮脇の誠意が、個人能力の限界の内で仕事を完結させようという思いである以上、組織を拡大して分業化したり、利益を基準に業務を分担しようなどという気持ちは無かったと思われる。すでに有名個人事務所である以上、仕事には困らなかった分、才能がありながら無名で設計のチャンスも無い若者がどうすればいいのか、報酬のルール化やダンピング防止策などへの気配りは欠けていた、というより、目の前の仕事で頭いっぱいだったに違いない。いい仕事をする例は示したが、それを建築家の基準とするには別の知識も必要であり、早世し過ぎたということもあるだろう。
彼の遺産は、個人建築家の思いやその具体的代表例を伝えることはできたが、「この種の建築家」全体の社会的存在価値への保障(責任分野や高額報酬基準の明示ルール化など)には至らなかった。それが(2)と(3)への返答であろう。
今にして思えば、宮脇の考えや仕事の本質の「社会的継承化の実現」こそが我々に残された仕事だろう。彼の死以降、才能のある個人建築家が救われるようになったという情報は一切ない。
(敬称略)



●付記:懇親会には出られなかったが、偶然、帰りの都バスを待っているところで一人の夫人が来て、「バスはもう行っちゃったんですか?」との質問。どうも会場にいた人のようなので聞いてみると、なんと故内井昭蔵氏夫人だった。
バスは神宮前二丁目から目黒に着くまでかなり長い時間かかる。
新日本建築家協会設立に丹下から、若手のホープということで熱心に誘われて協力し始めた内井に向かって、宮脇に「『お前、馬鹿じゃないか』って言われたんですよ」などの内輪の話を聞かせて頂いた。






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