「[アーツ]コア運動」続き
●恐縮です。追記、追記の連続です●
20日の記述に続き、もう一度、語ろう。
それは、「アウラ」と「調和・発想力・空間力・技術力」の差・・・そして、それを語る幼稚さ・・・
――また、追記しています――
突然、話の途中だが、横道へ。
考えついたことを、上に書いたとたんに思った。
それにしても、視覚を中心とした表現行為なのに、言葉で説明しなければならないというもどかしさは一体何だ? と。
自分がしたいし、やらなければならないのは言葉の表現ではない。でも言葉にできなければ、未来の予言は出来ないし、自己の考え方の一貫性や歴史認識は確保できない、と考えているからだ。
大学時代に、作品にコメントを付けて出したら、教師から「偉そうなことを言う前に作品を出せ」と言われ、反発したが、まったく変わっていない。
2010 年9月19日にも未知の松川昌浩さんという方から、懇切丁寧な感想を頂き、そこでも「言っていないで作品を創れ」とアドバイスを受けている。
十分承知。でも考えは変わらない。考え方がまとまり、伝えられないのでは話にならないと考えている。
チャンスがあれば(しかるべきクライアントの出現と表現アイデアのまとまり)、いつでも実現して見せる・・・
ということで、元に戻る。
――どういう訳か、またまた追記している――
なぜ、それほど言葉に拘る? と、もう一度問う。
そこには、自己都合で言わせてもらえば、何十年かの深い経験がある。
この国では輸入文化の振り廻しによって、そして近年は映像情報の跋扈によって、視聴覚体感文化が定まらない(解体しているとも言える)。その分、主役面をしてはばからないのが、言語文化だ。
つまり、この過渡期の時代に、言葉しか信用しない(それしか知らない)有識者、政治家、少なからぬメディア人種、経営者や官僚に対して、未来を予見して表現して説得力を持つのは、言葉でしかない、ということがはっきりしているのだ。
言っても空しいが、そこには創られた環境が生んだ教育の問題がる。
自分の中学、高校時代を振り返ってみるといい。美術の先生は変わり者か、従者的立場で職員室の隅に居たのではないか。思春期の価値形成は怖ろしい。
追い立てられ、追い詰められ、あるいは視覚でしか思考できないため、社会の見えない檻に閉じ込められ、その中だけで騒いでいるのがアーティストやデザイナー、ある種の建築家などだ、とは言えないか?
そこで、前記のようなこの国の社会的エスタブリッシュは相手にしない、すべきでないというなら議論は終わる。それはそれで羨ましい。好きなように仕事をしてください、と言うしかない。
ということで、再び最初に戻る。
それは、「アウラ」と「調和・発想力・空間力・技術力」の差・・・そして、それを語る幼稚さ・・・についてだ。
20日に記述した「[アーツ]コア運動」のことを書いていて、心に残ることがあった。そもそもキャンバス・アートのようなものと、建築空間のようなものを比較する方がおかしいという感じ方の問題だ。
そのことは判っている。だから前置き例のように話した。
そこで言ったことは、絵画の次元での「美」の根源はベンヤミンの言った「アウラ」に近いだろうということだ (ここでは余裕がなく「アウラ」の説明を省く。自著では解説している)
その「アウラ」のイメージをそのまま空間設計に持ち込むことはできない。空間の「美」となれば、「調和・発想力・空間力・技術力などの掛け合わせのようなもの」であり、確かにイメージに浮かぶ「アウラ」ではない。あるいは「アウラ」の概念を拡大しなければならない。
そんなことから単純な比較でなく、それぞれにある「ある原理的な価値」としての共通点への理解であり、「その価値の存在への評価、社会的認知」が課題だということだ。
それにしても、そんなことを言い出すだけ荒唐無稽な考え方だと思わせるほど、この国での「建築家の世界」などは変なことになっている。誰とは言わないが、アイデア勝負(素材、環境、CI技術など)、造形力勝負、受注力勝負、組織力勝負、広報力勝負によるメディア受けに賭けているのが現実・・・となると、もし、これが変なことでないとするならば、「調和・発想力・空間力・技術力の掛け合わせ」なんて言っている方が子供みたいに見えてくるだろう。
ここで見えてくる落差が、言いたいことを表している。
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