「素なることと多様な相」

NOTE: 本題の記事にするほどではないが、記憶に留めたい記事や思いを、メモとして後段に記載しておくことにした。





●7月20日:最後の方、少し、補足修正あり。

このブログを見て下さる方々は、やはり、どうやら建築家が多そうということで、引き続き専門的な話に傾くが・・・。


来る21日(土)に日本建築家協会(JIA)の会場で、港地域会の「MAS セミナー」(第28回)が行われるが、今回のテーマは「素なることと多様な相」という難しいもの。
どうしてこのテーマかと言うと、この秋の「JIA大会」に、アジア全体の建築家大会とダブらせて開催することにしたために、決まっていたアジア大会のテーマ「Simplicity and Multiplicity」を意図的に邦訳した結果のようだ。これを先回り、港地域会で「餌」にしようというわけだ。


恒例により地域会の参加パネリストは、前もって自分の想いを寄せていて、それがA3のチラシになっている。
ここでは自分もその一人として書いているが、他の7人のコメントを先読みさせて貰うと、こういう抽象的なテーマだけに、「建築家(会員にふさわしい知性と人格を備えている)の一般的な感じ方、考え方」というのが何となく判ってくるようで面白い。
まず判るのは、少なからぬパネリストが、建築が「見える具体的な空間だ」という大前提を熟知していて、そこからどんなにあがいても、そこにある「かたち」から離れることが出来ない、という前提の中にいるような思考をしている点である。
例えば一人は(まだ了解を得ていないので、誰も個人名は出さない)、天皇が外国の王族と面会された時の皇居の部屋の、簡素な和の雰囲気が外国では大きな衝撃と感動を与えたとし、ここに「素」を見出している。
●これは「素」が「見えている空間」にあっていい、と言っているわけだろう。
「素なるもの」を考えていても「視認出来る空間」に繋がっていく。
何人かは「プロセス」に注目し、あるいは「現代そのもの」に注目し、そこに「多様な相」を見出している。


それでいいんだけれど、自分だけ「それが嫌なんだ」と言わんばかりの言い掛かりになっている、と言いたい。●「素」には、建築家を業として成させている社会の仕組みの原点がある、というのもあっていいと思うのだ。
そこに建築家が越えられない障壁があり、それが日本社会が生み出した価値構造の中でネックになり、社会の中央に出られなくしている、と言いたいのだ。前日の本ブログ議論の通り。
話しても巧くまとめられるかどうか判らないし、仲間を批判するために話を利用するはずでもないが、この暑さの最中、こんなことでも面白いと思って頂ければ、当日、時間のある方は参加くださればと思う。(無料。14:00〜16:00。その後500円でワイン懇親会。場所:渋谷区神宮前2-3-18 JIA館、建築家クラブ。問い合わせ。03-5545-5936 田口設計事務所、mail:info@t-taguchi.com)
(24:00 339570)










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ある在庫処分業者(大阪)に持ち込まれる、アパレル業者などからの「新品で不用品衣類」は、年間で約600社から500万点。定価の1割ほどで買い、そのブランド・タグを外して自社サイトやイベント会場で定価の17〜18%でやっと売れているとのこと。
大手ブランドとなると、「倉庫保管も資産となり税金が掛かるから、横流しされないように、あえて焼却」と産廃処理業者に指示、1点づつ、証拠写真の提示を求めている。
国内の年間商品供給量から同購入数の推計を差し引くと、10数億点にも。再販される一部を除き、焼却されたり、破棄される新品の衣類が年間10憶点はある可能性が高い。
国連は「持続可能な開発目標」(SDGs=Sustainable Development Goals)を2015年に採択。「つくる責任、つかう責任」をを提唱しているが。(朝日新聞:7月3日)






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