都路華香(つじ・かこう)と柳宗理を見る

都路華香(つじ・かこう)と柳宗理を見る。

日本画というものはこういうものだな、ということを都路の絵は教えてくれる。
何と今回は昭和7年の遺作展以来、始めての大規模な回顧展だそうだ。
確かに都路という日本画家の名前は知らなかった。雅号については、師匠の寺野楳嶺から、本名の辻宇之助に合わせて「都の路に華の香がする」という組み合わせでもらったようだが、本人は女性と思われるようで厭だったらしい。
友達から聞いて、この展覧会(国立近代美術館)に行きたいと言い出したのは家内だった。ちょうど柳宗理のデザイン展をやっているし、隣の工芸館では松田権六の漆芸展もやっているし、ということで行く事に同意したわけだ。
しかし、印象は違っていた。あとで見た柳宗理がかすんで見えたほど、よい展覧会だった。
それは素人にも分かるような「人間臭さと常識」を兼ね備えていた。

都路華香の画才は言うまでもなく絵描きなら分る「本物」で、このために自分の表現技法が定まらず、いろいろの試みをした画業だったと見えた。つまり論理的に考えて表現したのではなく、手が動いてイメージを模索したのだ。また明治のこの時代は、画家の精神をゆさぶるような大変動の起こっていた時代だったから、何をやっていても心安らかではなかった、とも考えられる。明治28年(1895)と言えば、第4回内国勧業博覧会で、あの黒田清輝の裸体画「朝粧」の展示を巡って世論が沸騰した年だったからだ。この時、都路は24才だった。
彼の一到達時期は明治34年から36年、30才を越えたころと見えたが、このような洋画の波に翻弄されながらも京都にいて日本画に留まり、その代わり洋画の写実と空間把握はほとんど掌中にしていたと見えた。
その後の多様な画風はその心の遍歴を物語っている。その多様さが、こうした大きな回顧展にして始めて全体像として見えてくる時、都路の魅力が出てくるのだ。

もっとも、こうした日本画の先達を見て、自分の仕事に即、活かせるわけではない。
特にこの時代は、画家という職業が既存の絵師という職業概念に収まっているうちは、何らかの食いぶちにありつけたのかもしれないが、その後、絵描きの職業は壊滅している、そういう意味では、自他共に認める絵師でありえた判りやすい時代だった。
現在から見て都路のような仕事から何かを引き出すとすれば、その全体の画業人生そのものが語る、時代性と個人の在りようだ。
現在においても表現する者は、その時代性と個人の考え方を表現に込めなければならない。

その意味では、その後で見た柳宗理の仕事もその理にかなっている。
しかし、どうしたわけか、少しも面白くないのだ。
3年ほど前に、大学在職中に教員グループの一人としてだが、柳宗理さんとは一度しっかり会っていて、一緒にディスカッションもさせて頂いた。そういう意味では失礼なことを言える立場ではないが、プロダクト・デザインの持つ機能や市場性という問題が、個人の精神性を覆い隠すほどではないにしても、はっきりと主張させない何かを持っていると感じさせる。
現代の表現性は物質と精神の、その両面における多様性にある。ここを表現しないことには現代への批判精神が見えていないことにならないか。
そう言えばコルビジュエでさえも、タブロー(絵画)を創っている。柳さんの展覧会でも、考え方が判る図面やスケッチ、あるいは絵画でも出していればもうすこし深く人間性と時代性に肉薄できたのかも知れない。

あるいはもっと時代が過ぎれば、このような仕事も一段と浮き上がって全体像として見えてくるのかも知れないが、ここだけはよくわからない。