ミンゲラと言えば When we talk about Anthony Mingera

アンソニー・ミンゲラの映画


(ほとんどは15日の追記による)

When we talk about Anthony Mingera


ミンゲラと言えば、「イングリッシュ・ペイシェント」で話題になった。


今度、ウィル・ジュードロー、ジョルジェット・ビノシェ、ロビン・ライト・ペンという組み合わせで新しい映画を作った。何と、自分のメモに映画の題名記載がない。これは後で調べるしかない。
●後日記:題名は「壊れゆく世界の中で」だった。

ポイントは現代の三角関係。その取り込み方、アングル、何を取っても、ベースとして考えさせるものは多々あるのだが、映画としてはもう一つ描ききれていない。だから話題も低調なのだろう。

男は女房(といっても子連れで繋がってきた同棲関係のようだが)の気持が読めないでいる。娘が食事をせず逆立ちばかりしている精神不安定者のせいだろうか。この女(ロビン)がスェーデンから流れてきた(?)ため、先入観を承知で言えば、物凄く冷たく熱いせいもあろう。ミンゲラ自身も「ロビンを見ていて感嘆するのは、あの不可解さ」と言っており、ははーん、ラテン系の人間でも北欧の女は不可解なんだ、と一人合点する。ミンゲラ自身がイタリア系移民の子なのだ。
これでわかるが、二人の間は上手く行っていない。
「2人にとって言葉は、感情を隠すためにある」

そこにスラブ移民の女が絡んでくる。そのきっかけは男の事務所に泥棒に入った、このスラブ女の息子を追いかけて実家を探り当てたことによる。このスラブ女(ビノシェ)が「イングリッシュ・ペイシェント」の女主役だったようだが、そうだったけ?あの時は凄く美しいと思ったが、今回はだいぶ華が無くなったように感じた。でも、ロビンのような印象とは正反対の、むしろ日本人に近い気持の優しさを十分感じさせる。そこに彼が「流れ込んだ」というのはよくわかるが、演出上、もうひとつ何かが足りない。

こうして対極的な2人の女が、その容貌、仕草、身辺の状況からしても全く異なる世界で男に接するのである。この人種的比較が面白い。ここには舞台のロンドンが、今や、いかに多国籍化し、取りとめも無くなっているかという現実認識もある。ミンゲラは「(ロンドンには)空気が無い」と言う(予談だが、過日のNHKドキュメンタリーで、ドバイの有力者に、「これからはロンドンに投資して、国際金融の中心として評価してゆく」と言わせている)
さらに、開発に次ぐ開発で、ロンドン子でさえも街歩きには地図とコンパス(磁石)が必要だ」と語り、その過程の無法地帯で、スラブ女の息子が悪事に巻き込まれてゆく悪環境(例えば舞台となったキングス・クロス界隈)の存在を指摘する。
ついでだが、知られた女優というヴェラ・ファーミガが売春婦で登場。面白いが非常に上品にしか扱っていない。ミンゲラは「セックス(描写)は幻想を壊すだけだ」と言う。


またもっと面白いのはこの男(ジュードロー)の職業が、このような開発に関わる建築家、又は都市計画家だということだ。そこでミンゲラは、その関わりから自身の建築への関心、都市への関心、インテリアへの関心を映像表現で、より一層代弁させている。これがよく観察してみるととても興味深いのだ。
友人のシドニー・ポラックがポラック自身の友人であるフランク・ゲーリーへのインタービュウを映画化していることからも、ミンゲラの関心は必要以上に高められたと思われる。

事実ミンゲラは、みずからも視察して悲惨だと思った集合住宅のことを「ひどい」「(この)建築家は人間を理解していない」と言っている。建築家の自己満足への批判を滲ませているようだ。
この、建築家の仕事(どこかで見たが、ゆるい平面カーブを描いてセットバックしてゆく5層位の巨大な集合住宅。カムデン・ロックとか言っていたがこの名前がそうかな)である住宅にスラブ女を住まわせ、その内装を民族色にあわせて赤や茶色を多くしてやる。こまごまとした下らないものをたくさん並べ、その視線はやさしいが、建物内外に全体として生活の困窮感滲み出ている。

一方、ウィル(ジュード)と一緒に住むスェーデン女のいる住居の内装はほとんど白や黄色でモダーンで明るいが冷たくしている。「正常でないことが許せない」女の世界だ。
ミンゲラは「ウィルの部屋は整理されている。だから面白味が無い」とも語る。
このセッティングへのこだわりをミンゲラ自身が、長々とオプション番組(付録)で解説している。


長々と、とは言ったが、実際全く驚くような長さで、本番映像分くらいあったのではないか。これを見ても、ミンゲラが思いはあるものの言い切れなかったことが多いという証拠を残してしまったようなものだ。


本人は「脚本を決める前に音楽を決める」と言い、「結果より経過が大切だ」とも言うが、言い方を変えれば、興味のある物をあまりにも盛込みすぎて、本来の人間が描き切れなかったということではないか。
しかし、「イングリッシュ・ペイシェント」の時にも感じた、人間への深い感情と、慈愛に満ちたまなざしには感じ入るものが大きい。