これからは中国か Right or wrong about Chinese architectures.

何が良いのか判らなくなるのが、中国の建築(9月15日付記あり)


What is right, what is wrong about Chinese architectures.


北京オリンピックが終わった。
凄かったなぁ。あの開会式と閉会式の人的熱気。


それにしても、へルツォークとド・ムーロンの「鳥の巣」は、天津オリンピックセンタースタジアム(佐藤綜合計画)の3倍もの鉄骨を使っているそうだ(「鳥の巣」は1㎡あたり500kg・佐藤綜合計画設計部長鉾岩氏・天津スタジアムの方は、「経済性とデザインを両立し、発注者からも高い評価を受けた」とのこと・出典下記)。
それでも、「鳥の巣」は北京市民の圧倒的な支持を得たようだから、許されるというわけか。
「水立方」(国家遊泳中心・スイミングプール)も大変面白いが、この素材は日本では使えない(フッ素樹脂フィルム・旭硝子製)。「燃え抜けがない」という防火条件に合わないからだ。

何が良いのか判らなくなるのが、中国の建築。


この「鳥の巣」は、プロセスの映像記録が創られていて、東京では渋谷のユーロスペースというところでやっている。
設計過程の、多分、すさまじいやりとりがあったのだろうと思う部分については、ド・ムーロン氏が粘り強い交渉をしたことが感じ取れる他は、スタッフに、工事期間と、工事費の大幅カットについてのクレームを言わせている。しかし、思った程、このこと、つまり契約や考え方の差に突っ込んではいないので拍子抜けだった。

へルツォーク氏が「モニュメントを造ったのでなく、後世ににまで市民が集ってくれるような施設としたかった。ちょうどエッフェル塔のように」と言っているところにコンセプトと詳細の展開があるのだろう。

映像製作者にとっては、太極拳をする北京市民とか、壊されてゆくレンガ積みの多様な美しさなどの紹介が示すように、ある種の異国情緒の中で頑張っている仕事の紹介に力点が移っていったようにも見える。




これまでの情報では、とてもこの国では仕事が出来ない、と思ってきたが、この五輪ブームで、設計業界、建設業界もかなり整備されてきたと思える情報もある。
しかし情報はわずかで、どの位、自己体験レベルに合っているのかはハッキリしない。

自分に取って言えることは、少々キザで無責任な言い方だが、ゲーテの格言どおりだ。すなわち、「出来るけれど、やりたくない」。(ゲーテの言葉とは、「人生は二つのことで成り立っている。すなわち、やりたいけれど出来ない。出来るけれどやりたくない」、というもの)
なぜなら、今更、中国語を習う気はない。というより、通訳がいればとしても、まどろこしいし、どうも中国語の発音が耳障りなのだ。
次に、思わぬスピードで思わぬ規模の建築を設計出来るとは言え、それはシステムと地元での名声がついている場合に限るだろうから、ゼロでは始められない。となればどこかの設計事務所に勤めることになる。それからの独立では、後10年は必要だろう。どんなに元気良くたって、そのためにはぎりぎり40才だろう。50でも行きたければ行けるが、設計経験と能力への自信を頼りに勤務から始めるというのは「本気か」という時限になる。60才過ぎでは?これは本気を通り越していよう。


しかし、「出来るけれど」という中に、自分の本心はある。それはある程度読めている。なぜなら自分のこれまでの設計経験がまさしく中国的だと感ずるからだ。


具体的に言おう。
まず、設計の詰めは厳密に行なわれようが、現場はそうは行かない。荒れた現場で、よりいいものを造るために奮闘するのは自分の得意なところだ。そこでは日程、コストも一旦霞んで来る。
次に、ディテールは甘そうだが、あまり文句も言われそうもないところもいい。仕上げのためにピリピリ気を使うのは大変疲れる。さらに法規などがゆるそうだから「遊ぶだけ遊べそう」だ。造形上、素材上の実験もアイデア次第と見える。

もちろん、これらは勝手な想定で、現実はそうは甘くないだろうが。
こう言いたくなるのは、これらの丁度反対が現在の日本国内の建築設計業務と思うから。もうやめたい、と言いたい位、とは何回か書いたと思う。
ここに、「出来るけれど」の本心と願望と諦めがある。


以上の話にいくらかでもリアリティを与えるために、少し中国で活躍する外国人弁護士、建築家の意見を引用しよう。ここには日本人の意見はない。

「書類作業は多いが、法律も日進月歩で変化し、国際性の高い優れたものになった」(C.ダゴスティーノ弁護士・伊)
「頭でつくるドイツや日本と違って建設現場での実践が先立ち、工事のやり直しを重ねながら完ぺきに近づける」(ヤン・クロスターマンALSOP北京所長・独)
「最初は念入りに検討するのだが、仕事が進むと相互の信頼関係の方が優先される。訴訟も少なく、契約書を逆手に取ったような揉め事もない」(G.ホヘイセルGRAFT北京所長・独)
「中国社会では評判が物を言う。コミュニケーションを大切にし、万事、柔軟に対応することを心掛けてきた。イタリアよりも生活の質は劣るが、政治経済面ではむしろ安定」(S.ジョコンティSGA・伊)
「官僚的な設計院相手に歯がゆい思いをしたした人も多いと思うが、建築業界は日々進展し、国際水準い近づいている」(A.オチャRed House China・ヴェネズエラ)
「投資も豊富で様々な技術を試す大型プロジェクトに挑める」(P.アンドリューP.Andreu Architecte・仏)
「目の回るような忙しさだが、倍速の勢いで進むプロジェクトはどれも興味深い」(S.ホールS.Holl Architects・米)
(以上は「日経アーキテクチュア」2008/8-11号の、篠田香子さんの取材記事より)


少しは、僕の言い草が通るだろうか。
中で、ポール・アンドリューは「全般にディテールが甘い」とも、「危険なのはアイコンだらけの街になってしまうこと。ギネスを狙った競争にならぬよう、住み手の立場からの街づくりが必要だ」とも言っている。実感できる言葉だ。


それにしても、とまた言う。日本人で成功している人(迫慶一郎氏など)もいるようだから人種的な問題はないのだろうが、そうだろうか、という気も無くならない。
北京オリンピックを契機に、日本人にとっても仕事しやすく、住み易い国になってもらいたいとの願いが募る。