廃れの美学を呼び込め Wane, value of

モダニズムの残光の中で

Wane―in Japanese way: call its aethetics back to our expression.



 廃れ……美しい言葉だ。
人間は皆、死ぬ。それも一種の廃れだ。


 それなのに、建築やプロダクト・デザイン。
 何を見つけようとしているのか。デザインして残そうとは、商品化の宿命の上に乗って、あぐらをかいているだけではないのか。


 モノが永遠に残るわけではない。人間の記憶も時々刻々萎えていく。
誰が、あんたのことなど考えているものか。
残る仕事、残る作品って何だ。そんなもの有りはしない。
いや、無いわけではないが、歴史と偶然と行為のミックスが、ある人間の一時を照らすだけのことだ。
 それにしたって、地球最後の日が来れば、そこまでだ。


 と、今朝ふと、ここまで考え、かといって、虚無の深淵に落ち込んで行くわけではない、と合点した。
 日々、出来ることをやればいいのだ。
 その時、廃れの表現は、恐らく、恐ろしく自分に馴染み、自然なのではないかと思えてきた。


 モダニズムと廃れは反義語だ。モダニズムには、材料の、工法の、機能の永遠の作用が働き続けるかのような錯覚があった。そして、内在性を宿すモノへの信仰に揺るぎはなかった。


 今、このモダニズムの世紀に育ってそれを払拭することは出来ない。
一方、廃れは厳然として存在する。
 商品化として騙されているにしても、あえて廃れの表現を追い求めることはないだろう。自然に廃れるなら別だが……。