デザイン界への思い

老練のデザイン経験者達が、今の時代を語る


ここに載せるのにはちょっと長く、読むにも息苦しい所があるかもしれない。
それでも主要メンバー(理事)が集って、自分の言いたいことを勝手にしゃべる機会はそれほどないことを考えると、貴重な報告かもしれない。
そこで、去年の11月に行った特定非営利活動法人NPO)日本デザイン協会(略称NPOJDA)イベントの抄訳を添付します。以下で言う「当協会」とは、この団体のことです。


前倒しでコメントをつけておけば、各パネリストは、日本のデザイン興隆時期からその歴史に付き合って今日に至った、言わば「自分の関わったデザイン分野から、現代の日本のデザイン問題を総括する視点に立った」者たちです。
その観点から見ればこのイベント発言の抄訳は、今のデザイン問題を深く知る、又とない情報の巣箱であるということも出来るでしょう。
その気で読んで頂けたらありがたいです。


最後に私のコメント、「まとめに代えて」 をつけてあります。
身勝手な気遣いから言えば、討論の全容把握と、理解しておきたい要点だけ知ればいい、という方は、こちらへどうぞ。


(写真添付の本抄録原版、更には語られたことの全内容は、A4で15頁になりますが、当協会のホーム・ページに近日中に掲載されます。経験知を含めた詳細な話もまた面白いので、時間のある方はぜひフォローしてください)。

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当協会トップ・メンバーが自由に語る!


ここにデザイナーからの社会批判を。
特に同業者には必読!
産業人には新しい考えを!


経験と仮説が教える「デザイン」の現在と未来
(パネラー:國本桂史・木村戦太郎・宮沢功・秋山修司・大倉冨美雄/発言順。なお勝井三雄は体調不良で欠席:敬称略)

 (HPにはデザインフォーラム会場風景掲載)



天候に恵まれた2016年11月26日(土)、会場の「秀光ONE」は都内の青山通り、絵画館前の銀杏並木通りと直行しており、色付いた銀杏並木は多くの見物者で賑わっていました。 
それを見下ろす会場で、総勢20数名の方々が参加。ここではそれぞれの分野で活躍してきたメンバーの自由な発言要旨を抄録(発言者順)します。
なお、全体の会議録をお読み頂くには、NPOJDAのホーム・ページにある本抄録からクリック・ボタンを押せば入れます。



「いま人や社会に必要なデザインとは?」(メイン・テーマとその抄録)



H.サイモンが唱えたデザインの定義を医学界に定着させる
國本桂史・(医療・ライフケアデザイン)


カーデザイナーからスタートしたが、医療分野に携わって理系学生に「デザインとは?」 と問いかけると、色を塗ったり、切ったり張ったりの行為と理解しているようである。この経緯から、Herbert A Simonの「デザインとは現状を少しでも望ましいものに変えようとするための一連の行為である」をキーワードに話を展開している。
彼の言葉に、「デザインが対象とする課題はハードウェアでもソフトウェアでも構わない。デザインにおいては、構想力/課題設定力/種々の学問、技術の総合応用能力/創造力/公衆の健康・安全、文化、経済、環境、倫理等の観点から問題点を認識する能力、及びこれらの問題点等から生じる制約条件下で解を見出す能力/結果を検証する能力/構想したものを図、文章、式、プログラム等で表現する能力/コミュニケーション能力/チームワーク力/継続的に計画し実施する能力などを総合的に発揮すること」がある。これを理解させると共に、売れるものを考える事だけがデザインではなく、広く人びとに資する行為であることを指導している。
大学病院の中に医学部と協同し手術室や病室の設計、製品の開発を行っている。また医学界の中に医療デザイン部門を設備し、医療のオープンな構造を目指している。また、大学の中に「医療デザイン研究センター」を設置すると共に、各医療機関と連携した「医療デザイン研究開発機構」ネットワークづくりなどを含め、「開発型医療産業人」の育成を目指している。



このままでは現代人は、生存への免疫力を失う恐れが
木村戰太郎・(プロダクトデザイン)


人は道具を使うことで成長したと言われるが、ここでは「人の側からデザインを見る 」という視点で論を進めたい。
自分は戦後の混乱期に日暮里で過ごし、生い茂る雑草の中から食べられる野草を見つけたりして育った。大学では金工を専攻したが、生活のことも考え「創る人から考える人(デザイナー)」を選んだ。後年、聴覚障害のある若者たちにプロダクトデザインを教え、女子大でも教鞭をとった。
武器の事をArmと言うように、道具は手の延長または補強と理解しており、その意味でコンピューターは脳の延長である。それがあまりにも急激な発達を遂げ、個人や家族、そして人間社会にも好ましくない影響を与え始めている。
さて、赤ちゃんは原始人としてこの世に生を受け、成長の過程で現代人に教育される(家畜化するとも云われる)。エドワード T.ホール(「隠れた次元」の著者)によれば、人の行動は意識下で「生物学的基盤」と「文化的背景(後天的資質)」に影響されると言う。
赤ちゃんに対して、あまり近代的な住環境や、行き過ぎた躾は再考の余地がありそうだ。
例えば、最近話題の見守り保育のように、それぞれの成長過程への眼差しや、幼児の学習意欲を大切にした「人の成長を支援するプログラム」が大切だと感じている。
デザインの大切さは、高度化した情報社会への対応だけでは無く、人間本来の心や体の特質や人間関係に添い、心地よく生きて行けるデザインを提示することだと考えている。



得たもの/失ったものから、「人のためとは何か」を真剣に考える時
宮沢 功・(景観デザイン)


人や物・環境や社会にとって何が必要かというテーマの中で、人とモノの関係について述べたい。今、我々はモノに囲まれて育っているが、その関係と、集団の中で社会性を学ばないで育つ現在の社会に大変な危機感を持っている。
社会性とは、この世界で生活する人間の基本的性質と理解している。我慢・忍耐・礼節などは集団で暮らす基本ではないだろうか? 社会性が身につけられる3段階とは、まず子供時代の「しつけ」で、これは理屈ではない。次に学校という共同体の中で「決まり事」を学び考える。3番目に、卒業して様々の職業や立場の人びとと出会い、場合によっては自分の価値観を否定される場面もあり、その中で自分の価値を見いだしモノの価値を見いだす。そのような環境の中から自分がもっていた価値観と異なった場面に遭遇したりして、個性を見いだす。こうして人は、人生の価値観に出会い成長して行く。
その過程でモノ(道具や建築や環境をも含む)が関与してくる。モノ(=道具)と技術とにより社会の体制も変わる。状況と体制に合わせたモノが出来るわけだ。
改めて、何がモノを生み出すかを整理すると、
1・人の願いによって生まれる(企業の願いでは無い)。2・技術がモノのあり方を変える。3・社会が必要とするモノを生む。4・人の欲がモノを生む、4・経済が新しいモノを生み出す。
これで判るが、明治以降の歴史はモノの姿に深く関わっている。特に戦後70年で得たものと失ったものにそれが表れている。
得たものとは―豊富な商品・便利な生活・西欧文化・快適な生活
失ったものとは―日本の風景・コミュニティーの人間関係・社会の「規範」・思考力・我慢強さ・人を思いやる力・豊かな感性など。
ここに前述の「集団での学び」への軽視に始まる日本人の劣化が読み取れ、それが文化を育むデザインが持つ、「人のために役に立つ」という立場を見えなくさせている。



デザインの本質を突く
秋山修治・(インテリアデザイン)


 「デザインは裁判の判例に似ている。前の判例を基に新しい判例が生まれ、その判例を基にまた次に判例が書き換えられる」と言った人がいる(B・アーチャー)。「デザインは社会背景をもとに絶えず変化して行く」と言う視点から、しばし自分の仕事を振り返る。
K製薬の社長室(1960)/もったいぶった大きな社長机をやめ、ゆっくり打合せが出来る椅子の空間に。大手都市銀行の本店客溜り(同年)/企業間重視からより市民へ、との時代で、椅子は色付き布張りへ(当時はほとんど黒ビニールレザー)。リゾートホテルの客室(1970)/客はチェックアウトが遅いのを求めるため、家具を壁に取り付け一体化(脚を無くす)などで清掃時間の短縮を図り入室時間も早めた。ブランドショップ(2007)/理念開発型のブランドで、成り立ち・品質・拘りなどを展開の中で共感と賛同を得る工夫を。その他のプロダクトも、時代・社会背景をどう捉え、どう変化が待ち受けているかを考えデザインした。
今、工業化社会→情報化社会→高度情報化社会へと変貌する中で、デザインがどう進むべきかを推敲し、どのような視点と立ち位置で向き合わなければならないかが最も問われている。それへの答えとして、米・建築家フイリップ・ジョンソンが1980年代に述べた「これからの建築に求められる4つの指標」を紹介する。
第1は 利益を生める建築
第2は よりよい社会環境を作るための建築
第3は 経済効率のよい建築
第4は アートとしての建築
「この第4が何にも増して重要だ。建築の美は我々の文化の真髄を表現するものであり,次の1000年の基盤をつくるものでもある。人生は短いが美は永遠だから」
他に伊・ブルーノ・ムナーリが自著で、「多くのデザイナーや建築家が様々な椅子をデザインしているが(著書掲示)、人びとの求めるモノを考えれば、それがすべてではない・・・」と言っている。どこまでも多様化、多値化の途があるということだ。



まだ認識格差が大きい産業界とデザイン界の思い
大倉冨美雄・(建築/工業デザイン)


 皆が話した事で解るように、デザインの範囲は広い。どこからがデザインで何処までがデザインか? 言葉が拡散していて、何でもデザインと「都合の良いように使える言葉」になっている。 実は最近までは、先進的な事を行う行為であり、特殊な人の仕事と思われていた。
 そこで今、デザインとは何か。
1・まず今は「デザインとは何か」の定義が定まっていない。
2・IoT、AI化は必然。その時代に「デザインに何が出来るか」を知る必要がある。
自動運転などに代表される社会の問題として、非常に技術が進歩し社会問題となり無視できない。トランプがアメリカ大統領選に当選し産業界が大きなショックに見舞われたように、グローバル化による経済格差に見る社会変化、産業構造の激変の問題が問われている。
デザイナーは未来に何が出来るのか。
この間、あるセミナーに参加。NPO産学連携推進機構が主催で(講師は理事長の妹尾堅一郎氏)、100人を超す参加者のほとんどが企業所属の産業人だった。その内容は「これからはモノづくりでは無く、サービスの時代だ」という展開であった。
妹尾氏はサービス業種を、業態論から商品/場の問題に振っていったが、この「サービスという概念」の中で、デザイナーに何が出来るのかと考えた。
それはクリエイティブ分野の再編成と、感性価値への正当な評価の問題に置き換えられる。つまり我々が出来ることは、「好感度を引き出すルールを見つける」、「好感度の表現を提示する」ではないかと思った。感性価値の社会立法化と視覚表現能力の提示である。
最近出版した自著「CREATIVE 〔ARTS〕 CORE」はこの内容に触れているが、業態論から「商品と場」、すなわち「モノのサービス化、『場』の自主選択」などについては述べていない。これはビジネス感覚に沿った話だが、この分野は自分でも得意の分野ではなく、これから学ばなければならないと思っているところだ。



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―まとめに代えて―
それぞれの想いから見える多様性と未来への指針


最近、日本人がおかしくなっているという人が増えている。
「3・11以降、(日本全体を考えるモノサシが足りなくなって)アジアに広げた」と、外国からの日本人を映像観察した映画「バンコクナイツ」(富田克也監督)が出たし、最近亡くなった鈴木清順監督は「明治維新が江戸文化を壊した」との信念を曲げなかったそうだ。(*)
ということは当然、現在の日本人もおかしい、という筋書きとなろう。
これは映画界の話だが、激変をもたらした時代を生きるここでの5人の経歴からしても、そこからの感じ方、考え方の展開は当然、すべて違っている。そこにはデザイナーから見ての、日本人を越えて、人間の未来への危機感がにじみ出ている。
元から、この討論会はまとめることではなく、個人の考えを自由に発信するということだった。が、終わってみると、皆が現状から判断して、生きとし生きる人間とその社会の未来を思い、危惧する点では大きく一致していたと言えよう。このことは、まさしく現代が科学技術の成果により、人間存在の根本と、そこからの未来が問われている大きな転換期であることが納得されているからであろう。
微妙な差は、各人の内面における自己責任の置き所だろうと思えた。それが当面の「デザインが何か」を決めているようだ。
「デザイン」という言葉が単純には「計画」を意味するように、人間の未来について、自由な論理的、感性的構想を持つことは許されている。ここに、論理的思考でたどり着くデザインもあれば、体内化された感性的な経験で「デザイン」を納得する場合もあることが感じられてくる。承知のように、理性と感性は解決できない哲学的な命題であり、哲学者はその優劣を探したり、競ったりして生きてきた歴史がある。
論理的帰結からすれば、現状の産業界の優劣構造や弱点を判断し、そこに「デザイン」を落とし込むことも可能である。それが医療分野の場合、医療行為としてでなく、生命をどう救済するのかについて、時間、空間、物質、機能、人間心理などから手を差し伸べることは新しい可能性である。一方、感性的にデザインを「把握」した者はイメージの根源を意識しているために、まず自分の居場所を動くわけにはいかず、対象である既存産業界という現実社会とどう向き合うかを探すということになろう。そして、そのどちらにも、個人的な表現への要求がある。
「デザイン」はまさに、個人としての人間に内在する論理と感性の表出の場での狭間にあり、その合一を目指すべきなのか、それが出来なくても存在意味があるのか、誰も解を出していない。ここでの討論は、その現場である。 (大倉記)
* 「アジアのモノサシで問う日本」(2017/02/24朝日新聞夕刊、鈴木清順のことは同紙「天声人語」2017/02/23)



NPO法人日本デザイン協会(JDA)主催 デザインフォーラム
開催日時 2016年11月26日(土)15:00 〜18:00
開催場所 東京 青山METLIFEビル6階 秀光ONEショウルーム





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